昨日は第69回連翹忌でした。光太郎智恵子ゆかりのお店、日比谷松本楼さんにおきまして、全国から関係の方々等がお集まりくださり、光太郎を偲ぶ集いを持たせていただきました。
そちらが夕方5時30分から。その前に例年のルーティンですが、まずは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から半世紀以上連翹忌の運営に携われられた北川太一先生ご夫妻の墓参。桜のお寺としてひそかに有名な文京区の浄心寺さんです。
続いて都立染井霊園、光太郎を含む髙村家墓所へ。
それぞれ既にお花が手向けられていましたが、自宅兼事務所から持参した連翹を追加させていただきました。右上はおまけ(笑)。なぜか髙村家墓所の近くでは毎回といっていいくらい猫の姿を見かけます。
集いの会場、日比谷公園松本楼さん。こちらでもまだ桜が散らずに残っています。
そちらが夕方5時30分から。その前に例年のルーティンですが、まずは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から半世紀以上連翹忌の運営に携われられた北川太一先生ご夫妻の墓参。桜のお寺としてひそかに有名な文京区の浄心寺さんです。
続いて都立染井霊園、光太郎を含む髙村家墓所へ。
それぞれ既にお花が手向けられていましたが、自宅兼事務所から持参した連翹を追加させていただきました。右上はおまけ(笑)。なぜか髙村家墓所の近くでは毎回といっていいくらい猫の姿を見かけます。
集いの会場、日比谷公園松本楼さん。こちらでもまだ桜が散らずに残っています。
遺影、一年間で刊行された主な書籍など会場のセッティング。
配付資料の袋詰めや、連翹の花生け、受付など、多くの方が手伝って下さいました。ありがたし。
そして午後5:30、開会。
ざっとご挨拶をさせていただき、献杯。音頭は光太郎実弟・豊周令孫の櫻井美佐様にとっていただきました。
着席ビュッフェ形式で、会食。
一段落ついたところで、恒例となっています参会の方々によるスピーチ。
まずは今回初めてご参加下さった、宮沢賢治実弟・清六令孫の和樹氏。花巻で2度公開対談を一緒にさせていただいたりで、当方としては仲良しになったという感覚でして。先方はそう思われていないかも知れませんが(笑)。
同じ花巻ということで花巻市役所の光太郎記念館担当の方に寄贈された中原綾子関連の資料等について、光太郎顕彰活動を進められているやつかの森LLCさんの藤原代表、それから昨年度岩手県の「食の匠(たくみ)」に認定された新渕和子さん(右上画像)。新渕さんは昨日、手作りのご当地スイーツ「きりせんしょ」や大福など、たくさんお持ち下さいました。
やはり昨年度、「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞された女川光太郎の会・佐々木英子様。
その女川で、平成3年(1991)に光太郎文学碑除幕記念として公演された「オペラ智恵子抄」を作曲された仙道作三氏。10年ぶりくらいのご参会でした。
一旦、スピーチを打ち切り、料理を食べきっていただいて、参会者の皆様同士で懇談の後、再開。ご存命であれば100歳になられた北川先生が都立高校教諭であらせられた頃の教え子の皆さんの会「北斗会」を代表して池上徹様、尾崎喜八令孫にして水野葉舟令曾孫・石黒敦彦様(左下)、昨年絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』を刊行された太平洋美術会の坂本富江様(右下)。かつて智恵子も所属した同会も120周年だそうで。
山田氏もご加盟いただいている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエ保存会世話役の曽我貢誠氏、今月中旬から智恵子紙絵展を開催して下さる信州安曇野碌山美術館・武井敏学芸員、光太郎オマージュの作品を作曲中のフルート奏者・吉川久子様、今月27日(日)、二本松の智恵子生家で当方プロデュースの公演をなさる「連翹三人娘」(朗読の荒井真澄さん、箏曲の元井美智子さん、電子楽器テルミンの大西ようこさん)。
最後の締めに、朗読家・出口佳代様、フリーアナウンサー・早見英理子様による光太郎詩「僕等」(大正2年=1913)、「元素智恵子」(昭和24年=1949)朗読。
ソロで読まれる部分と、お二人で声を合わせて読まれる部分と、実に工夫されていて、参会の皆様からも「素晴らしい」のお声が多数。
盛会の内に終えることができました。ご協力いただきました全ての皆様に、この場で御礼申し上げます。
来年は記念すべき第70回の連翹忌となります。さらに多くの皆様がご参加下さることを期待しております。参加資格は唯一つ。「健全な精神で高村光太郎を敬愛すること」のみです。よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小生の東京行はただ仕事の為のみで仕事が終つたら又山へ帰つてくるつもりで居ります。東京へ行つても多分アトリエに籠居して、銀座あたりへは行かないでせう。(十月中旬上京)中野桃園は貴下の旧アドレスだつたのでゆかりのふかいところと思ひました。
「乙女の像」制作終了後は、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るつもりで居た光太郎。実際、像の除幕後に10日間ほど一時帰村しますが、宿痾の肺結核のため、過酷な寒村での暮らしに耐えられる状態ではありませんでした。次善の策として、厳冬期には中野、それ以外は太田村と、二重生活も目論みますがそれも不可能。結局は中野の貸しアトリエでその生涯を閉じることになります。69年前の昨日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分でした。前日から東京は季節外れの大雪に見舞われました。それは光太郎を敬愛して止まなかった岩手の人々の餞(はなむけ)、或いは先に逝った最愛の妻・智恵子からの贈り物、はたまた「冬」を愛した光太郎が終生追い求めた「自然」からの祝福だったのかもしれません。
配付資料の袋詰めや、連翹の花生け、受付など、多くの方が手伝って下さいました。ありがたし。
そして午後5:30、開会。
ざっとご挨拶をさせていただき、献杯。音頭は光太郎実弟・豊周令孫の櫻井美佐様にとっていただきました。
着席ビュッフェ形式で、会食。
一段落ついたところで、恒例となっています参会の方々によるスピーチ。
まずは今回初めてご参加下さった、宮沢賢治実弟・清六令孫の和樹氏。花巻で2度公開対談を一緒にさせていただいたりで、当方としては仲良しになったという感覚でして。先方はそう思われていないかも知れませんが(笑)。
同じ花巻ということで花巻市役所の光太郎記念館担当の方に寄贈された中原綾子関連の資料等について、光太郎顕彰活動を進められているやつかの森LLCさんの藤原代表、それから昨年度岩手県の「食の匠(たくみ)」に認定された新渕和子さん(右上画像)。新渕さんは昨日、手作りのご当地スイーツ「きりせんしょ」や大福など、たくさんお持ち下さいました。
やはり昨年度、「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞された女川光太郎の会・佐々木英子様。
その女川で、平成3年(1991)に光太郎文学碑除幕記念として公演された「オペラ智恵子抄」を作曲された仙道作三氏。10年ぶりくらいのご参会でした。
一旦、スピーチを打ち切り、料理を食べきっていただいて、参会者の皆様同士で懇談の後、再開。ご存命であれば100歳になられた北川先生が都立高校教諭であらせられた頃の教え子の皆さんの会「北斗会」を代表して池上徹様、尾崎喜八令孫にして水野葉舟令曾孫・石黒敦彦様(左下)、昨年絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』を刊行された太平洋美術会の坂本富江様(右下)。かつて智恵子も所属した同会も120周年だそうで。
山田氏もご加盟いただいている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエ保存会世話役の曽我貢誠氏、今月中旬から智恵子紙絵展を開催して下さる信州安曇野碌山美術館・武井敏学芸員、光太郎オマージュの作品を作曲中のフルート奏者・吉川久子様、今月27日(日)、二本松の智恵子生家で当方プロデュースの公演をなさる「連翹三人娘」(朗読の荒井真澄さん、箏曲の元井美智子さん、電子楽器テルミンの大西ようこさん)。
最後の締めに、朗読家・出口佳代様、フリーアナウンサー・早見英理子様による光太郎詩「僕等」(大正2年=1913)、「元素智恵子」(昭和24年=1949)朗読。
ソロで読まれる部分と、お二人で声を合わせて読まれる部分と、実に工夫されていて、参会の皆様からも「素晴らしい」のお声が多数。
盛会の内に終えることができました。ご協力いただきました全ての皆様に、この場で御礼申し上げます。
来年は記念すべき第70回の連翹忌となります。さらに多くの皆様がご参加下さることを期待しております。参加資格は唯一つ。「健全な精神で高村光太郎を敬愛すること」のみです。よろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小生の東京行はただ仕事の為のみで仕事が終つたら又山へ帰つてくるつもりで居ります。東京へ行つても多分アトリエに籠居して、銀座あたりへは行かないでせう。(十月中旬上京)中野桃園は貴下の旧アドレスだつたのでゆかりのふかいところと思ひました。
昭和27年(1952)8月13日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳
「乙女の像」制作終了後は、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るつもりで居た光太郎。実際、像の除幕後に10日間ほど一時帰村しますが、宿痾の肺結核のため、過酷な寒村での暮らしに耐えられる状態ではありませんでした。次善の策として、厳冬期には中野、それ以外は太田村と、二重生活も目論みますがそれも不可能。結局は中野の貸しアトリエでその生涯を閉じることになります。69年前の昨日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分でした。前日から東京は季節外れの大雪に見舞われました。それは光太郎を敬愛して止まなかった岩手の人々の餞(はなむけ)、或いは先に逝った最愛の妻・智恵子からの贈り物、はたまた「冬」を愛した光太郎が終生追い求めた「自然」からの祝福だったのかもしれません。