光太郎詩「火星が出てゐる」の一節をあしらったしおりを今月初めにご紹介しました。制作/販売はネット上でオンラインショップを展開なさっている小野屋善行商店さん。「文豪のしおり」「文豪スマホケース」「文豪アクリルキーホルダー」といった、昨今静かなブームの「文豪」ものをいろいろと扱われています。

過日入手したものは「少部数テスト販売」ということでしたが、同じ位置づけで光太郎作品の一節を使ってデザインされたしおりが3点出まして、ゲットしました。
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それぞれ詩が使われており、左から「寸言」(昭和10年=1935)の全文、前回と同じで色違いの「火星が出てゐる」(大正15年=1926)の一節、そして連作詩「とげとげなエピグラム」(大正12年=1923)中の一篇。3枚横に並べましたが、こうすると用紙の地紋の模様が連続するようになっているとのこと。紙質や印刷の状態もなかなかのものです。

大正末から昭和10年(1935)までということで、光太郎詩は自己の荒ぶる魂を獣たちや妖怪どもに仮託した連作詩「猛獣篇」も書かれていました。まだ日中戦争も始まって居らず、愚にもつかない翼賛詩篇の乱発にはいたっていない時代です。ただ、「猛獣篇」のノリで殺戮兵器である戦車をモチーフにした「無限軌道」が既に昭和3年(1928)には書かれているのですが。

当会の祖・草野心平らとの交流から、アナキズムやプロレタリア文学に一定の理解を示し、心情的には彼らのシンパに近かった光太郎ですが、その手の運動に深入りすることはありませんでした。

その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)

そうした内面のジレンマがいろいろな部分で表れているこの時期の詩群も、なかなかに読み応えがあって好きです。

さて、光太郎しおり、先述の通り「少部数テスト販売」で、現在はラインナップに入っていませんが、また増刷されて広く売られることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ届き、今月末日頃フアミリ帯同で来訪の由、やはりたのしみになります、その頃は外出せずに小屋にゐませう。炎暑の候なので此処の徒歩はとても無理ですから、花巻からタキシを約束して、往復を車にしてはどうでせう。少しは取られるでせうが。

昭和27年(1952)7月23日 髙村豊周宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため秋に上京することとなり、そのための打ち合わせを兼ね、実弟の豊周夫妻、それから息女の珊子が花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れることになりました。豊周一家が信州に疎開して行った昭和20年(1945)3月以来の兄弟対面ということになります。