光太郎、それから実弟の豊周の母校にして、光太郎の父・光雲と豊周が教壇に立った東京美術学校の歴史を中心に、江戸末期から終戦直後までの我が国の美術教育史、ひいては美術史全般が語られています。髙村親子三人についてもそれぞれ触れられています。

東京美術学校物語――国粋と国際のはざまに揺れて

発行日 : 2025年3月19日
著者等 : 新関公子
版 元 : 岩波書店(岩波新書)
定 価 : 960円+税

東京芸術大学の前身、東京美術学校の波乱の歴史をたどりながら、明治維新以後の日本美術の、西洋との出会いと葛藤を描く。

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目次
まえがき――『東京美術学校物語』の基礎としての『東京芸術大学百年史』の存在について
 第一章 日本はいつ西洋と出会ったか――キーワードは遠近法
  享保の改革と漢訳洋書輸入解禁
  蘭書からの直接的西洋の影響
  西洋の遠近法と日本人の遠近法理解
  幕末明治の西洋体験――高橋由一の場合
 第二章 ジャポニスムの誕生――慶応三年パリ万国博覧会への参加
  江戸幕府パリ万国博覧会へ参加する
  フランス画壇の状況――印象派誕生前夜
  ジャポネズリとジャポニスム
 第三章 欧化を急げ――明治初期の国際主義的文化政策
  ウィーン万博参加と御雇外国人ワグネル
  万博と浮世絵
  唐突な工部美術学校の開校
  女子も学べた工部美術学校
  ラグーザと清原玉
 第四章 反動としての国粋主義の台頭
  龍池会の誕生
  フェノロサと岡倉との出会い
  『美術真説』を読んでみる
  フェノロサ、狩野芳崖を発見する
  パリで開かれた「日本美術縦覧会」の失敗
  フェノロサ、狩野派改良の絵画指導を始める
 第五章 美術学校設立の内定とフェノロサ、岡倉の欧米視察旅行
  文部省内におかれた「図画調査会」
  国立美術学校設立の内定
  フェノロサ、岡倉の帰朝報告
  原田直次郎のフェノロサ批判
 第六章 国粋的美術学校の理念の確立にむけて
  芳崖はフェノロサ、岡倉の手として選ばれた
  フェノロサの哲学的立場
  イデア論の延長――人間の誕生を描く《悲母観音》
  《悲母観音》の図像学の成立過程を考える
  国粋的美術学校の開校の背後で泣いた洋画家たち
――高橋由一・源吉親子と原田直次郎の場合
  五姓田一族と山本芳翠の場合
 第七章 開校された美術学校――フェノロサ、岡倉の教育プログラム
  お古の建物で始まった国粋美術学校
  フェノロサの授業の革新性とその受講生の作品
  公共モニュメントの受注制作
  シカゴ・コロンブス世界博覧会への協力
 第八章 図案科、西洋画科の開設と岡倉の失脚
  西洋画科の開設
  人事――紛争の火種
  選科という制度
  白馬会の創設
  岡倉失脚の経緯
  連袂辞職騒動
 第九章 一九〇〇年パリ万国博覧会への参加
  岡倉の去ったあとの美術学校
  パリ万博における美術学校関係者の出品と受賞
  浅井忠の驚愕と反省
  黒田の《智・感・情》
 第一〇章 正木直彦校長時代の三〇年と七ヶ月
  正木校長時代の日本画科
  正木校長時代の西洋画科
  文部省展覧会(文展)の創設と反文展の動き
  在野美術団体の誕生
  校友会活動
  正木時代のその他の出来事
  学生の思想取締りや退学処分
 第一一章 和田英作校長時代の四年間
  横山大観の怒り
  和田校長時代の改革と主な出来事
  矢代幸雄の美術学校への貢献
  和田校長が辞任に至る原因
  画家としての和田英作
 第一二章 戦時下の東京美術学校とその終焉
  戦時下の美術学校と眼のない自画像
  戦時下の画壇の状況
  戦時下の美術学校の教師――藤島武二の場合
  国粋主義者・横山大観
  大観の野望
  東京美術学校から東京藝術大学へ
 『東京美術学校物語』関連年表
 あとがき

一昨年から昨年にかけ、岩波書店さんのPR誌的な『図書』に連載されていたものに加筆・修正だとのことです。著者の新関氏は、昭和15年(1940)のお生まれだそうで、新制東京藝術大学さんをご卒業後、同大資料館(現・大学美術館)に勤務され、教授を経て現在名誉教授の由。

明治維新から太平洋戦争敗戦に至るこの国歴史全般が、まさにサブタイトルの通り「国粋と国際のはざまに揺れて」の年月だったわけで(現代も、ですが)、美術教育、そして美術界全体もその波から逃れられなかったことに思いを馳せながら拝読いたしました。

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【折々のことば・光太郎】

数日前小包到着、実にいろいろいただき、驚くばかりです、数へる事も出来ないほどで皆お心のこもつた品々、ありがたく存じました、 アメリカの洗剤は早速使用、なるほど效能書にある通り純白に上るので喜びました、


昭和27年(1952)7月19日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

敗戦から7年近く経ち、物資不足も漸く落ち着いてきたようですが、まだまだだったようですね。