昨日は横浜に行っておりました。目的地は港の見える丘公園内の神奈川近代文学館さん。
まずは閲覧室で、特別資料の閲覧。特別資料というのは書簡や書幅などの古書業界で云うところの「肉筆もの」、各種イベント等の案内状などの同じく「一枚物」などです。同館、通常の書籍類は行けば書庫から出して下さって閲覧出来ますが、特別資料はなんとか会員に登録の上で事前に申請し、閲覧室のさらに奥の特別室で拝見するシステムです。これまでも『高村光太郎全集』等未収録の光太郎の書簡などを2、3度拝見したことがありましたが、ここ数年でまたやはり未知の新たな資料が増え、そちらを閲覧させていただきました。
書簡が3通。詩人の中野重治に宛てたもの1通と、中央公論社社長だった嶋中雄作に宛てたものが2通。それから「一枚物」として、昭和20年(1945)に岩波書店の創業者・岩波茂雄が貴族院議員に当選(普通選挙ではなく議員による互選)しましたが、その際の推薦状。推薦者として名を連ねている24名の中に光太郎の名も記されています。また、意外なところでは新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の名も。岩波、相馬とも信州人ということもあったかもしれません。
そちらの閲覧を終え、一旦外へ出て別棟の展示室へ。
こちらでは今月20日から特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」が始まっており、拝見しました。
平成29年(2019)に亡くなった大岡信氏、詩人としてもご活躍でしたが、評論活動なども活発に行われ、特に『朝日新聞』さんに昭和54年(1979)から約30年連載されていたコラム「折々のうた」は大きな業績の一つとして語り継がれています。
フライヤー裏面にはその第一回の原稿の画像も。
記念すべき第一回は光太郎短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を取り上げて下さいました。
驚いたことに、この肉筆原稿と共に、光太郎自身がこの歌を揮毫した色紙も展示されていました。大岡氏の遺品なのかもしれません。
その他、昨年亡くなった谷川俊太郎氏をはじめ、さまざまな分野の人々との交友の様子を物語る品々、それから光太郎と同様に自ら書家を名乗ったわけではないものの、見事な書をたくさん遺されたその作品群など、興味深く拝見いたしました。
同館を出て、目の前の霧笛橋から撮ったベイブリッジ。手前は木蓮の一種でしょう。
振り返ると当会シンボルの連翹も満開でした。
特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」、5月18日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意慾の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮沢賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうに思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。
佐藤隆房は賢治の主治医でもああり、光太郎の花巻疎開にも尽力、その後も物心ともに光太郎を援助し続けた人物でした。その佐藤に宛てたある意味手厳しい花巻評。7年を超えた花巻及び郊外旧太田村での暮らし、人的交流の部分では完全なパラダイスだったわけでもないことが見て取れます。
この後、10月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しますが、完成後には再び太田村に戻るつもりで居ました。後足で砂を掛けて出ていくというわけでは決してなく、光太郎の岩手に対する思いはなかなか複雑なものがありました。
まずは閲覧室で、特別資料の閲覧。特別資料というのは書簡や書幅などの古書業界で云うところの「肉筆もの」、各種イベント等の案内状などの同じく「一枚物」などです。同館、通常の書籍類は行けば書庫から出して下さって閲覧出来ますが、特別資料はなんとか会員に登録の上で事前に申請し、閲覧室のさらに奥の特別室で拝見するシステムです。これまでも『高村光太郎全集』等未収録の光太郎の書簡などを2、3度拝見したことがありましたが、ここ数年でまたやはり未知の新たな資料が増え、そちらを閲覧させていただきました。
書簡が3通。詩人の中野重治に宛てたもの1通と、中央公論社社長だった嶋中雄作に宛てたものが2通。それから「一枚物」として、昭和20年(1945)に岩波書店の創業者・岩波茂雄が貴族院議員に当選(普通選挙ではなく議員による互選)しましたが、その際の推薦状。推薦者として名を連ねている24名の中に光太郎の名も記されています。また、意外なところでは新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の名も。岩波、相馬とも信州人ということもあったかもしれません。
そちらの閲覧を終え、一旦外へ出て別棟の展示室へ。
こちらでは今月20日から特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」が始まっており、拝見しました。
平成29年(2019)に亡くなった大岡信氏、詩人としてもご活躍でしたが、評論活動なども活発に行われ、特に『朝日新聞』さんに昭和54年(1979)から約30年連載されていたコラム「折々のうた」は大きな業績の一つとして語り継がれています。
フライヤー裏面にはその第一回の原稿の画像も。

驚いたことに、この肉筆原稿と共に、光太郎自身がこの歌を揮毫した色紙も展示されていました。大岡氏の遺品なのかもしれません。
その他、昨年亡くなった谷川俊太郎氏をはじめ、さまざまな分野の人々との交友の様子を物語る品々、それから光太郎と同様に自ら書家を名乗ったわけではないものの、見事な書をたくさん遺されたその作品群など、興味深く拝見いたしました。
同館を出て、目の前の霧笛橋から撮ったベイブリッジ。手前は木蓮の一種でしょう。
振り返ると当会シンボルの連翹も満開でした。
特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」、5月18日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意慾の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮沢賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうに思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。
昭和27年(1952)7月19日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳
佐藤隆房は賢治の主治医でもああり、光太郎の花巻疎開にも尽力、その後も物心ともに光太郎を援助し続けた人物でした。その佐藤に宛てたある意味手厳しい花巻評。7年を超えた花巻及び郊外旧太田村での暮らし、人的交流の部分では完全なパラダイスだったわけでもないことが見て取れます。
この後、10月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しますが、完成後には再び太田村に戻るつもりで居ました。後足で砂を掛けて出ていくというわけでは決してなく、光太郎の岩手に対する思いはなかなか複雑なものがありました。