2ヶ月半経ってしまいましたが、新刊です。
発行日 : 2025年1月8日
著者等 : 佐藤義雄・松下浩幸・長沼秀明[著]
版 元 : 翰林書房
定 価 : 2,800円+税
場所と言葉を往還しつつ、〈 地霊(ゲニウス・ロキ) 〉を復原する。文学鑑賞の醍醐味を再認識するための実践的な提案。
目次
はじめに 松下浩幸
一 樋口一葉「日記」「別れ霜」 ― 東京図書館・お茶の水橋・万世橋 松下浩幸
あとがき 佐藤義雄
初出一覧
目次に「講座一覧」とあるように、元は明治大学さんの「リバティアカデミー」という市民講座中の一つで「都市空間を歩く」が開設され、その報告書的なブックレットからの修正加筆が中心のようです(一部は書き下ろし)。
著者のお三方とも明治大学さんで教壇に立たれている皆さん。お三方で100回余りの講座を受け持たれたそうで、鷗外や漱石、芥川などは繰り返し取り上げられていました。逆に宮沢賢治、萩原朔太郎など本書に収録されなかった作家も多数。で、お三方がご自分の担当講座から数篇ずつを選んで本書が構成されています。
光太郎智恵子に関しては松下浩幸氏によるもの。100回余の講座中、光太郎智恵子を中心に据えたのはこの一回のみだったようで、それを本書に収録してくださったのはありがたいところです。元は平成28年(2016)3月のブックレットに「〈狂気〉と〈純愛〉――高村光太郎『智恵子抄』と千駄木・日暮里」の題で収められていましたので、約10年前ですね。
従って、最新の情報が盛り込まれていません。既に取り壊されてしまった光太郎の実家(旧駒込林町155番地)が写真入りで紹介されていますし、明治45年(1912)に智恵子と福島の医師との間に縁談があったという件は、大島裕子氏の調査で否定されています(相手とされてきた医師は既に妻帯・子持ちだったと判明)が、反映されていません。
まぁ、そうした点はさておき、『智恵子抄』詩篇を読み解きつつ、「恋愛は何よりも近代的な人間であることの証であり、個人の意思を尊重する「ヒユウマニテイ」(人間性)としての行いを実践するという意味を持っていた」「近代的恋愛とは「人類」の普遍的な意志であり、個人が成長していくために必須の思想的実践であった」といった指摘には「なるほど」と思わされました。
まだ手元に届いたばかりで、光太郎智恵子の項と、光太郎といろいろ交流のあった長谷川時雨の項しか精読していませんが、全体に図版や地図も多く、これを片手に文学散歩としゃれ込むのにいいなと思いました。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
小生にとりて東京は好ましき土地ではございませんが、この製作完成までは特に滞在、仮アトリエに蟄居の覚悟を定めました。
津島文治は太宰治の実兄にして当時の青森県知事。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の仕掛人です。
大戦末期の昭和20年(1945)5月から足かけ8年に亘る岩手での暮らしで浄化された光太郎の眼には、伝え聞く戦後の雑駁とした東京の様子は忌避すべきものだったようですが、像の制作のためには仕方ありませんでした。「完成までは特に滞在」とあるように、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に戻るつもりで、住民票やほとんどの家財道具は残したまま上京します。
はじめに 松下浩幸
一 樋口一葉「日記」「別れ霜」 ― 東京図書館・お茶の水橋・万世橋 松下浩幸
二 夏目漱石『それから』 ― 神楽坂・小石川・青山 松下浩幸
三 森鷗外「百物語」 ― 向島 松下浩幸
四 高村光太郎『智恵子抄』 ― 千駄木・日暮里 松下浩幸
五 江戸川乱歩「目羅博士」 ― 上野・丸の内 松下浩幸
六 長谷川時雨『旧聞日本橋』 ― 日本橋 長沼秀明
七 徳冨蘆花『不如帰』 ― 赤坂氷川町 長沼秀明
八 田山花袋『田舎教師』 ― 上野公園 長沼秀明
九 久保田万太郎「春泥」 ― 日暮里 長沼秀明
十 藤村「並木」と芥川「毛利先生」 ― 日比谷・大手町・神田 佐藤義雄
十一 永井荷風「紅茶の後」 ― 銀座 佐藤義雄
十二 三島由紀夫「詩を書く少年」 ― 目白・学習院 佐藤義雄
講座一覧あとがき 佐藤義雄
初出一覧
目次に「講座一覧」とあるように、元は明治大学さんの「リバティアカデミー」という市民講座中の一つで「都市空間を歩く」が開設され、その報告書的なブックレットからの修正加筆が中心のようです(一部は書き下ろし)。
著者のお三方とも明治大学さんで教壇に立たれている皆さん。お三方で100回余りの講座を受け持たれたそうで、鷗外や漱石、芥川などは繰り返し取り上げられていました。逆に宮沢賢治、萩原朔太郎など本書に収録されなかった作家も多数。で、お三方がご自分の担当講座から数篇ずつを選んで本書が構成されています。
光太郎智恵子に関しては松下浩幸氏によるもの。100回余の講座中、光太郎智恵子を中心に据えたのはこの一回のみだったようで、それを本書に収録してくださったのはありがたいところです。元は平成28年(2016)3月のブックレットに「〈狂気〉と〈純愛〉――高村光太郎『智恵子抄』と千駄木・日暮里」の題で収められていましたので、約10年前ですね。
従って、最新の情報が盛り込まれていません。既に取り壊されてしまった光太郎の実家(旧駒込林町155番地)が写真入りで紹介されていますし、明治45年(1912)に智恵子と福島の医師との間に縁談があったという件は、大島裕子氏の調査で否定されています(相手とされてきた医師は既に妻帯・子持ちだったと判明)が、反映されていません。
まぁ、そうした点はさておき、『智恵子抄』詩篇を読み解きつつ、「恋愛は何よりも近代的な人間であることの証であり、個人の意思を尊重する「ヒユウマニテイ」(人間性)としての行いを実践するという意味を持っていた」「近代的恋愛とは「人類」の普遍的な意志であり、個人が成長していくために必須の思想的実践であった」といった指摘には「なるほど」と思わされました。
まだ手元に届いたばかりで、光太郎智恵子の項と、光太郎といろいろ交流のあった長谷川時雨の項しか精読していませんが、全体に図版や地図も多く、これを片手に文学散歩としゃれ込むのにいいなと思いました。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
小生にとりて東京は好ましき土地ではございませんが、この製作完成までは特に滞在、仮アトリエに蟄居の覚悟を定めました。
昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛書簡より 光太郎70歳
津島文治は太宰治の実兄にして当時の青森県知事。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の仕掛人です。
大戦末期の昭和20年(1945)5月から足かけ8年に亘る岩手での暮らしで浄化された光太郎の眼には、伝え聞く戦後の雑駁とした東京の様子は忌避すべきものだったようですが、像の制作のためには仕方ありませんでした。「完成までは特に滞在」とあるように、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に戻るつもりで、住民票やほとんどの家財道具は残したまま上京します。