一昨日、糟糠の妻とともに茨城は筑波山に行っておりました。と言っても、登山はせず、中腹の筑波山神社さんへの参拝と、近くの筑波山梅林さんでの観梅でした。
まずは筑波山神社さん。何だかんだで5回目くらいの参拝でしたが、以前には得ていなかった情報がありまして……。
昭和4年(1929)、水戸運輸事務所刊行の『名所案内』という書籍。この中に光太郎の父・光雲の名が。曰く「拝殿正面の扁額「筑波神社」は故小松宮彰仁親王の御揮毫、其の彫刻は高村光雲の作である」。
寺社の扁額を光雲が手がけた例は、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんにもあり、今年1月に拝見に伺いました。筑波にもあるのか、という感じでした。
寺院の山門にあたる随神門。
寺院の山門ですと左右には主に阿吽の金剛力士(仁王尊)が配されていますが、神社ですのでご祭神を守る別の神さまの像が一般的です。こちらでは日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。ご祭神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)/伊弉冉尊(いざなみのみこと)のご子孫で、共に武神ですね。像は木像ではなく鋳銅のように見えました。
そして拝殿。
少し観梅には時期的に遅いかな、と思ったのですが、そうでもありませんでした。散ってしまった木もあったものの、まだまだ満開の木の方が圧倒的に多い感じです。駐車料金が500円かかるだけで、入園自体は無料です。
こちらの揮毫は俳人・荻原井泉水。光太郎の一つ年下です。直接の交流はなかったようですが。
梅以外に、水仙や椿なども。
今週末、あるいは来週の春分の日くらいまでは見頃かと存じます。ぜひ足をお運び下さい。ただ、予想外に高低差がありましたので(妻のスマホアプリによればビル20階分くらい)、そのおつもりで(笑)。
【折々のことば・光太郎】
皆さんの熱意をも考へ、又仕事としての意味をも考へ、おうけして猛烈にやらうかといふ気になつてゐますが、ともかく谷口博士、佐藤氏、貴下等と一度十和田湖の自然を見てから決定したいと思ひます。
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。光太郎、なかなか慎重でした。
まずは筑波山神社さん。何だかんだで5回目くらいの参拝でしたが、以前には得ていなかった情報がありまして……。
昭和4年(1929)、水戸運輸事務所刊行の『名所案内』という書籍。この中に光太郎の父・光雲の名が。曰く「拝殿正面の扁額「筑波神社」は故小松宮彰仁親王の御揮毫、其の彫刻は高村光雲の作である」。

寺院の山門にあたる随神門。
寺院の山門ですと左右には主に阿吽の金剛力士(仁王尊)が配されていますが、神社ですのでご祭神を守る別の神さまの像が一般的です。こちらでは日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。ご祭神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)/伊弉冉尊(いざなみのみこと)のご子孫で、共に武神ですね。像は木像ではなく鋳銅のように見えました。
そして拝殿。
ところが扁額が見あたりません。「うーん」でした。
考えられる可能性としては、暴風雨等で損壊し撤去されたか、保存のため拝殿内部に掲げられているか、あるいは上記『名所案内』の記述がガセだったか、そんなところでしょうか。
先ほどの随神門の方には扁額が掛かっています。ただ、新しい感じです。
事情をご存じの方、ご教示いただけると幸いです。
拝殿の向かって右には、摂社的な日枝神社さん、春日神社さん、厳島神社さん。こちらは素朴な木彫がプリミティブでいい感じでした。
かたわらには紅梅も美しく。
再び随神門をくぐって石段を下りると、こんな碑が。往路では脇道から入ったので気づきませんでした。
日清・日露戦争時の海軍士官、のちに中将まで上り詰め、他に学習院御用掛や宮中顧問官なども務めた小笠原長生の揮毫です。小笠原と言えば光雲と親しい間柄で、東郷平八郎と光雲を仲介したりもし、光雲についての回想も数多く残している人物ですので「ありゃま」という感じでした。

考えられる可能性としては、暴風雨等で損壊し撤去されたか、保存のため拝殿内部に掲げられているか、あるいは上記『名所案内』の記述がガセだったか、そんなところでしょうか。
先ほどの随神門の方には扁額が掛かっています。ただ、新しい感じです。
事情をご存じの方、ご教示いただけると幸いです。
拝殿の向かって右には、摂社的な日枝神社さん、春日神社さん、厳島神社さん。こちらは素朴な木彫がプリミティブでいい感じでした。
かたわらには紅梅も美しく。
再び随神門をくぐって石段を下りると、こんな碑が。往路では脇道から入ったので気づきませんでした。
日清・日露戦争時の海軍士官、のちに中将まで上り詰め、他に学習院御用掛や宮中顧問官なども務めた小笠原長生の揮毫です。小笠原と言えば光雲と親しい間柄で、東郷平八郎と光雲を仲介したりもし、光雲についての回想も数多く残している人物ですので「ありゃま」という感じでした。

こちらの揮毫は俳人・荻原井泉水。光太郎の一つ年下です。直接の交流はなかったようですが。
梅以外に、水仙や椿なども。
今週末、あるいは来週の春分の日くらいまでは見頃かと存じます。ぜひ足をお運び下さい。ただ、予想外に高低差がありましたので(妻のスマホアプリによればビル20階分くらい)、そのおつもりで(笑)。
【折々のことば・光太郎】
皆さんの熱意をも考へ、又仕事としての意味をも考へ、おうけして猛烈にやらうかといふ気になつてゐますが、ともかく谷口博士、佐藤氏、貴下等と一度十和田湖の自然を見てから決定したいと思ひます。
昭和27年(1952)4月12日 藤島宇内宛書簡より 光太郎70歳
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。光太郎、なかなか慎重でした。