3月8日(土)、福島県相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示、歴史資料収蔵館で光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄々(朝山)の彫刻を拝見後、愛車を南に向け、いわき市に向かいました。この日メインの目的であるいわき市立草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」拝聴のためです。

途中で昼食を摂り、さらに若干早く着いてしまったので、館近くの小川諏訪神社さんに参拝。
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当会の祖・草野心平が生まれ育った旧小川村ということで、もしかすると少年時代の心平が訪れたんじゃないかな、などと思いながら参詣いたしました。もっとも、悪童だったであろう心平のことですので、屋根によじ登ったり床下に入り込んだりといった悪さをしていたかもしれません(笑)。

さて、館に到着。
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まずは光太郎をはじめ(言葉の綾ではなく、実際に導線上の「い」の一番に光太郎です)、様々な人物からの来翰などが並んでいる常設展を拝見しました。さらに「スポット展示」ということで、心平実弟にして光太郎と交流があり、歿後に第2回高村光太郎賞を受賞した草野天平に関わる展示も為されていました。以前の天平のスポット展示では、天平が受け取った高村光太郎賞の賞牌(光太郎が彫った木皿を光太郎実弟の豊周が鋳金したもの)が展示されましたが、残念ながら今回は無し。

講演会の受付を済ませ、ホールへ。午後2時、開会。
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講師は福島大学さん名誉教授の澤正宏氏、そして同大で氏の薫陶を受けられた詩人の和合亮一氏。講演というより、澤氏のご編著『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻(クロスカルチャー出版)を軸とした公開対談という趣でした。
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澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさっていて、久しぶりにお目に掛かりました。和合氏とはさらに久しぶりで、このブログを始める前(さらに言うなら東日本大震災前)の平成20年(2008)と翌年の智恵子を偲ぶレモン忌の集いでお会いして以来でした。お二人のお話、随所で光太郎にも触れて下さり、ありがたく存じました。

それ以外に興味深かったのは戦時中の件。戦前にはアナキストとも言える立ち位置だった心平が、日中戦争時には中華民国政府(王精衛政権)の宣伝部顧問となり、光太郎も参加した大東亜文学者大会の実施に奔走したりしました。大政翼賛会中央協力会議の議員や日本文学報国会詩部会長を務めた光太郎と重なります。しかし心平、光太郎ほどには戦意高揚の翼賛詩的なものを書いていません。それを書けないほど忙しかったのではないかと当方は考えています。また、戦後、光太郎は自らの戦争責任を断罪する連作詩「暗愚小伝」を発表しましたが、心平はそうしたこともしませんでした。心平にしてみれば「言い訳はしたくない」という気持ちだったのではないでしょうか。

この時期、東京大空襲80年ということもあり、いろいろ考えさせられました。

ちなみに心平、敗戦時も中国にいて、国民政府軍に拘束され、収容所行き。その際に持っていた光太郎や宮沢賢治からの来翰、光太郎に貰った智恵子の紙絵四枚なども含め、財産は没収されました。紙絵に関しては後に「いまとなってはむしろ、私の家なんかにあるよりは中国のどこかの家に飾ってあってくれれば、とも思うのだが。」(「高村光太郎・智恵子」昭和39年=1964 『新潮』掲載)と、心平は書きました。

終演後、お二人とお話しさせていただきました。

澤氏からはお願い。『草野心平研究資料集』の今後の配本に、当方が平成28年(2016)、心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して語ったものの筆記(心平記念館さんの館報第19号に掲載)を転載したいとのこと。大したお話をしたわけでもないのにそんなのを載せて下さるとは、と、逆に恐縮してしまいました。

和合氏には、ドサクサに紛れて昨年刊行された御著書『エッセイ三昧』を持参し、サインしていただきました(笑)。
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お二人の今後のさらなるご活躍、同館のますますのご発展を祈念いたします。

以上、福島浜通りレポートを終了いたします。

【折々のことば・光太郎】

山では今バツケが出てきたところです。


昭和27年(1952)4月3日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「バツケ」は新仮名遣いでは「バッケ」。ふきのとうを表す方言です。蟄居生活を送っていた岩手花巻郊外旧太田村では4月頃芽を出すのですね。

当会事務所兼自宅の裏山ではもう盛んに出ています。
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かたわらにはオオイヌノフグリも咲いていました。
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こう書くとのどかな里山のようで、まぁ実際、昼間はそうなのですが、油断は禁物。下の画像は何かお判りでしょうか。
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おそらくイノシシの足跡です。

17歳で逝ってしまった愛犬が健在の頃、夕方、一緒に散歩していて3回ほど遭遇しました。春になり、きゃつらも活発になってきたようです。