一昨日、愛車を駆って福島県の浜通り地区(太平洋沿岸)を廻っておりました。レポートいたします。
まず向かったのが、宮城と県境を接する相馬市。最初に相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示を拝見しました。
全国の図書館さんでよくある、テーマを定めて蔵書等を一ヶ所にまとめ説明パネルを掲げるタイプのミニ展示。
パネルがなかなか秀逸でした。
テーマが「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」ということで、他にもいるのでしょうが、原釜海岸をたびたび訪れた智恵子、その夫・光太郎、同じく原釜に足跡を残している竹久夢二、そして相馬出身の彫刻家・佐藤玄々が中心でした。
智恵子関連では、やはり原釜滞在の件。
それから、竹久夢二も原釜を訪れています。
光太郎智恵子と夢二には軽く関わりがありました。そんなこんなで相関図。
光太郎智恵子関連の図書類。
『日本の文学者36人の肖像(上)』、『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』など、新しめのものも。
展示図書の目録。
そして相馬出身にして光太郎の父・光雲孫弟子の佐藤玄々(朝山)関連。
まず向かったのが、宮城と県境を接する相馬市。最初に相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示を拝見しました。
全国の図書館さんでよくある、テーマを定めて蔵書等を一ヶ所にまとめ説明パネルを掲げるタイプのミニ展示。
パネルがなかなか秀逸でした。
テーマが「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」ということで、他にもいるのでしょうが、原釜海岸をたびたび訪れた智恵子、その夫・光太郎、同じく原釜に足跡を残している竹久夢二、そして相馬出身の彫刻家・佐藤玄々が中心でした。
智恵子関連では、やはり原釜滞在の件。
智恵子が2度訪れた、という解説になっていますが、時期が特定出来ているのが2度であって、それ以外に少女時代にも訪れているかもしれません。というか、その可能性が高いと思われます。ちなみに相馬市の北隣・新地町にも立ち寄ったという証言も残っています。
確認出来ている2回の滞在では、ともに金波館(現存せず)という宿に宿泊していました。
下画像は手元にある原釜の古絵葉書。金波館も写っていると思われます。確認出来ている2回の滞在では、ともに金波館(現存せず)という宿に宿泊していました。
それから、竹久夢二も原釜を訪れています。
光太郎智恵子と夢二には軽く関わりがありました。そんなこんなで相関図。
光太郎智恵子関連の図書類。
『日本の文学者36人の肖像(上)』、『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』など、新しめのものも。
展示図書の目録。
そして相馬出身にして光太郎の父・光雲孫弟子の佐藤玄々(朝山)関連。
これには驚きました。「兎」。解説の通り、光太郎にも全く同一の図題の「兎」手板浮彫が現存します。数え14歳、東京美術学校の予備門的な共立美術学館に在学中の作品です。
光太郎の「兎」、講演や市民講座などで光太郎の生い立ちを語る際、「十代前半の少年の作とはとても思えません」と言いつつ紹介すると、会場の反応が「おおお!」となるものです。その際に「もっとも、オリジナルの作ではなく、手本があってそれを写したものと思われますが」と付け加えますが、やはりそうだったか、という感じでした。こうした手本で光雲一門が彫刻のイロハを学んだということなのでしょう。
同様に、やはり光太郎作の「猪」の手板浮彫(左下)も、全く同じ図題のもので別人(右下・作者不明)の作が美校の後身である東京藝術大学さんに残されています。
「朝山」時代の「兎」など、玄々の作品が同じ相馬市の歴史資料収蔵館に多数展示されているということで、そちらへ。
最も見たかった「兎」も、裏面の「鶏」の方を面にしてあったので見られず、残念でした。
しかし、昭和15年(1940)、コンペにより皇居ちかくに建てられ、光太郎も好意的に評したた和気清麻呂像のエスキスや、日本橋三越さんのシンボル「天女( まごころ)像」に関する展示など、興味深く拝見しました。また、光雲一門を離れ(和気清麻呂像コンペをめぐるゴタゴタがありまして)「玄々」となってから、木彫でもヘンリ・ムーアを思わせるような抽象っぽい作も作るようになり、そのあたりも。
その後、愛車を南に向け、この日のメインの目的だったいわき市の草野心平記念文学館さんへ。澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴しましたが、そちらについては明日、レポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
貴下がロンドンから持ち帰られたヘラ其他の彫刻道具の御恵贈にあひ、まことにありがたく感謝の念に満たされました。丁度今年あたりから少しづつ製作を始めたいと考へてゐた矢先なのですがお察しの通り道具一切を揃へるのに苦心してゐました。
白瀧は画家。美校出身で光太郎の先輩に当たりますが、遠く明治末には留学仲間でした。
前月21日、佐藤春夫からの丁重な書簡を携え、建築家の谷口吉郎、当会の祖・草野心平弟子筋の藤島宇内が山小屋を訪れて、青森県からの彫刻製作の依頼を伝え、4月2日には青森県の幹部も同じ件で光太郎の元を訪れました。いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作プロジェクトが動き出しました。
光太郎の「兎」、講演や市民講座などで光太郎の生い立ちを語る際、「十代前半の少年の作とはとても思えません」と言いつつ紹介すると、会場の反応が「おおお!」となるものです。その際に「もっとも、オリジナルの作ではなく、手本があってそれを写したものと思われますが」と付け加えますが、やはりそうだったか、という感じでした。こうした手本で光雲一門が彫刻のイロハを学んだということなのでしょう。
同様に、やはり光太郎作の「猪」の手板浮彫(左下)も、全く同じ図題のもので別人(右下・作者不明)の作が美校の後身である東京藝術大学さんに残されています。
「朝山」時代の「兎」など、玄々の作品が同じ相馬市の歴史資料収蔵館に多数展示されているということで、そちらへ。
最も見たかった「兎」も、裏面の「鶏」の方を面にしてあったので見られず、残念でした。
しかし、昭和15年(1940)、コンペにより皇居ちかくに建てられ、光太郎も好意的に評したた和気清麻呂像のエスキスや、日本橋三越さんのシンボル「天女( まごころ)像」に関する展示など、興味深く拝見しました。また、光雲一門を離れ(和気清麻呂像コンペをめぐるゴタゴタがありまして)「玄々」となってから、木彫でもヘンリ・ムーアを思わせるような抽象っぽい作も作るようになり、そのあたりも。
その後、愛車を南に向け、この日のメインの目的だったいわき市の草野心平記念文学館さんへ。澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴しましたが、そちらについては明日、レポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
貴下がロンドンから持ち帰られたヘラ其他の彫刻道具の御恵贈にあひ、まことにありがたく感謝の念に満たされました。丁度今年あたりから少しづつ製作を始めたいと考へてゐた矢先なのですがお察しの通り道具一切を揃へるのに苦心してゐました。
昭和27年(1952)4月10日 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎70歳
白瀧は画家。美校出身で光太郎の先輩に当たりますが、遠く明治末には留学仲間でした。
前月21日、佐藤春夫からの丁重な書簡を携え、建築家の谷口吉郎、当会の祖・草野心平弟子筋の藤島宇内が山小屋を訪れて、青森県からの彫刻製作の依頼を伝え、4月2日には青森県の幹部も同じ件で光太郎の元を訪れました。いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作プロジェクトが動き出しました。