昨日始まった企画展示です。
相馬市図書館・歴史資料収蔵館連携企画展 相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち
期 日 : 2025年3月1日(土)~5月30日(金)
会 場 : 相馬市図書館 福島県相馬市中村字塚ノ町 65−16
時 間 : 平日10時〜19時 土、日、祝日は10時〜17時
休 館 : 館内整理日(毎月の月末)
料 金 : 無料
光太郎智恵子のイラストがなかなか秀逸ですね。しかし下のヒゲの人物がいったい誰なのかがわかりません。相馬市と言えば光太郎の父・光雲の孫弟子にして日本橋三越本店さんの巨大彫刻「天女( まごころ)像」などを手がけた佐藤朝山(玄々)の故郷で、「連携」として挙げられている歴史資料収蔵館さんには佐藤の作品が多数展示されていますが、顔立ちが違うような……。隣接する南相馬市は作家の埴谷雄高の出身地で、同じく島尾敏雄も両親が南相馬出身。ところが二人ともヒゲはありません。
追記・ヒゲの人物は竹久夢二でした。
今回のイベント、あまり大々的に宣伝されておらず、ネットで調べてもX(旧ツイッター)への投稿と相馬市さんの広報誌『広報そうま』2月15日号しか情報が見あたらず、詳細が不明です。
ところで「高村智恵子・光太郎夫妻を中心に」とありますが、光太郎は相馬を訪れたことは確認出来ていません。先に名の出ている智恵子の方は、明治40年(1907、日本女子大学校を卒業した年で数え22歳、父・今朝吉やきょうだいと共に)と大正6年(1917、光太郎と結婚披露を行った3年後)に原釜海岸の金波館という宿に滞在したことが確認出来ています。また細かな年月日は不明ですが、それ以前の少女時代にも家族と訪れていたようです。そこで今回、光太郎は刺身のツマでしょう(笑)。
智恵子は明治40年(1907)の滞在時には、同じ宿に泊まっていた旧制米沢中学生の鈴木謙二郎(後の山形県伊佐沢村村長、長井市教育委員)と親しくなり、帰京後も姉弟のように文通を続けました。
謙二郎の子息・鈴木重信氏の回想「智恵子の手紙」が、長井市地域文化振興会編刊『長井のひとびと 第3集』(昭和59年=1984)に掲載されています。
謙二郎宛の智恵子書簡は『高村光太郎全集』別巻にすべて収録されていますが、この文章も貴重な回想です。
展示ではおそらくこの金波館滞在の件に触れられているのでしょう。
3月8日(土)、いわき市の草野心平記念文学館さんで、澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴することになりましたので、そちらの前に足を運ぶつもりで居ります。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
まだ雪もさかんにふり、寒さも〇下八度、十度といふところですが、小生割に健康、肋間神経痛も殆ど苦にならない程度になりました。
3月頭にマイナス10℃。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、どんだけだよ、という感じです。
高村智恵子・光太郎夫妻を中心に、相馬市に縁のある、または訪れたことのある芸術家の人物紹介図や関連書籍などを展示します。
特典 図書館で配布する企画展のパンフレットを歴史資料収蔵館に持参することで、次の特典が受けられます。
特典 図書館で配布する企画展のパンフレットを歴史資料収蔵館に持参することで、次の特典が受けられます。
▽オリジナルグッズをプレゼント
▽歴史資料収蔵館の観覧料が無料(高校生以下の学生のみ)

追記・ヒゲの人物は竹久夢二でした。
今回のイベント、あまり大々的に宣伝されておらず、ネットで調べてもX(旧ツイッター)への投稿と相馬市さんの広報誌『広報そうま』2月15日号しか情報が見あたらず、詳細が不明です。
ところで「高村智恵子・光太郎夫妻を中心に」とありますが、光太郎は相馬を訪れたことは確認出来ていません。先に名の出ている智恵子の方は、明治40年(1907、日本女子大学校を卒業した年で数え22歳、父・今朝吉やきょうだいと共に)と大正6年(1917、光太郎と結婚披露を行った3年後)に原釜海岸の金波館という宿に滞在したことが確認出来ています。また細かな年月日は不明ですが、それ以前の少女時代にも家族と訪れていたようです。そこで今回、光太郎は刺身のツマでしょう(笑)。
智恵子は明治40年(1907)の滞在時には、同じ宿に泊まっていた旧制米沢中学生の鈴木謙二郎(後の山形県伊佐沢村村長、長井市教育委員)と親しくなり、帰京後も姉弟のように文通を続けました。
謙二郎の子息・鈴木重信氏の回想「智恵子の手紙」が、長井市地域文化振興会編刊『長井のひとびと 第3集』(昭和59年=1984)に掲載されています。
謙二郎宛の智恵子書簡は『高村光太郎全集』別巻にすべて収録されていますが、この文章も貴重な回想です。
展示ではおそらくこの金波館滞在の件に触れられているのでしょう。
3月8日(土)、いわき市の草野心平記念文学館さんで、澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴することになりましたので、そちらの前に足を運ぶつもりで居ります。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
まだ雪もさかんにふり、寒さも〇下八度、十度といふところですが、小生割に健康、肋間神経痛も殆ど苦にならない程度になりました。
昭和27年(1927)3月5日 松下英麿宛書簡より 光太郎70歳
3月頭にマイナス10℃。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、どんだけだよ、という感じです。



