本日、3月9日号が発売ですので先週号の扱いになってしまいますが、雑誌『サンデー毎日』さんの3月2日号。光太郎の父・光雲の名が。
「『サンデー毎日』が見た昭和100年」という連載の第3回で、サブタイトルが「1928(昭和3)年 97年前、本誌が取材した「私の健康長寿法」 渋沢栄一、東郷平八郎、高村光雲、高橋是清、下田歌子…」。同誌の昭和3年(1928)2月5日号に載った「私の健康長寿法」という記事が元ネタです。
「シリーズには経済人や政治家、軍人など各界の約20人が登場する」というわけで、当時の各界著名人の体験談等から、光雲や渋沢栄一、東郷平八郎などの「健康法」を抜粋紹介しています。
光雲に関しては「45~46歳で禁酒。パン食(1食にパン2切れと牛乳1合、有り合わせの惣菜少量)の実行。一度も人といさかいをしたことがない」。
「あれっ? これ、読んだぞ、っていうか、「あれ」じゃん」。「あれ」というのは、当会で機関誌的に年二回発行している冊子『光太郎資料』の第58集(令和4年=2022)に載せた光雲談話「たゞ仕事に没頭」。
当該部分は以下の通り。
引用元は『サンデー毎日』ではなく、昭和3年(1928)11月8日、文海書院発行、田中正雄著『回春長寿 生の喜び』です。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた各界著名人の体験談等が掲載されています。光雲(数え77歳)以外には、東郷平八郎(同81歳)、渋沢栄一(同89歳)、高橋是清(同75歳)、下田歌子(同75歳)ら13名でした。
「『サンデー毎日』が見た昭和100年」という連載の第3回で、サブタイトルが「1928(昭和3)年 97年前、本誌が取材した「私の健康長寿法」 渋沢栄一、東郷平八郎、高村光雲、高橋是清、下田歌子…」。同誌の昭和3年(1928)2月5日号に載った「私の健康長寿法」という記事が元ネタです。
「シリーズには経済人や政治家、軍人など各界の約20人が登場する」というわけで、当時の各界著名人の体験談等から、光雲や渋沢栄一、東郷平八郎などの「健康法」を抜粋紹介しています。
光雲に関しては「45~46歳で禁酒。パン食(1食にパン2切れと牛乳1合、有り合わせの惣菜少量)の実行。一度も人といさかいをしたことがない」。
「あれっ? これ、読んだぞ、っていうか、「あれ」じゃん」。「あれ」というのは、当会で機関誌的に年二回発行している冊子『光太郎資料』の第58集(令和4年=2022)に載せた光雲談話「たゞ仕事に没頭」。
当該部分は以下の通り。
暴飲暴食から反省
若い頃は、盛んに暴飲、暴食をした。殊に蕎麦が最も好物ではあつたが、一体に好き嫌いのない方で何でも人に負けぬくらゐ食べた。ちよつとしても鰻丼(うなぎどんぶり)の二杯位、天麩羅蕎麦で三四杯、もりならば五六杯はケロリとやつてのけた。
酒も随分飲んだ。いくら飲んでも平気なのだから始末が悪い。
斯様に無茶な暴飲暴食をやつてきた私が、しかし何等の障害も受けず、極めて健康にやつてこられたことは、全く親が無病に私を生んで呉れたからだ……と、有難く思はずにはゐられなかつた。が若い頃は兎も角として、だんだん年をとつてくるのに、さうべらぼうな大食や深酒などしてゐたんでは……と、だんだんそんな考へもおきてきた。と、ちようど友人に医者があつて、彼も特に酒は節(せつ)しろといつて呉れた。こゝで遂に、私は決心をした。しかし私の性分として、節酒なんてことは出来さうもない。否(いな)、盃を手にしたらもう駄目にきまつてゐる
――これはどうしても絶対の禁酒でなければならない。そこで私は完全に禁酒を断行した。四十五六の時である。以来、ずつとこの禁を破らずにゐる。
肥満退治にパン食を
また、六十の峠を越してから、私は無闇と肥満してきた。勿論、労働をする訳ではない私のことだから全くの脂肪(あぶら)太りといふべきで、只もうブヨブヨと重たくなるばかり、身体(からだ)を屈することはもとより、歩くにもだんだん困難を感じるやうになつて、ほとほとわが身の肥満が荷厄介になつてきた。こりや何とかせずばなるまい! と思はれてきた。
で、いろいろと薬も飲んでみた、が何の效果もない。さて胃を損じたのか? 或は癌でも出来たのぢやあるまいか? と思はれるやうになつた。時々はシクシクと痛みさへするのである。考へざるを得ない。
何か一ツ自分で適当な方法を講じねばならない、と決心した。
ふと気になり出したのは米食である――年をとつてから三度々々の米の飯はむしろ過ぎやしないか? といふことだつた。思ひ立つと矢も楯もたまらぬ性分の私は、かうして米飯をぷツつり止(や)めて、パン食とした。それも一日に僅(わずか)半斤――半斤のパンのあたまをはねて六ツに截(き)りその恰度切餅大のものを一食にたつた二きれと牛乳を一合、それに何でも有合せの惣菜少量――といふのを、常食とすることにきめた。
この食事は最初頗る物足らなく、また変梃(へんてこ)であるに違ひなかつたが、私は忍び忍んで一年余りを続けてやめなかつた で、その結果は? といへば、果して良好だつた。――体量は一躍二貫三四百も減つて了ひ、身体(からだ)の調子は極めて楽になつてきた。どうも脂肪のため圧迫され勝ちに思はれて不快だつた心臓の調子も、めつきりよくなつてきた。
私は大いに喜んだ。全く少量なパン食の結果に外ならなかつたのだ。それから以来、私はずつとパン食を続けて今日におよんでゐる。
最初十八貫もあつた私の体重は(身長は小粒の方だから)その後ずつと減つて、今では先づ十五貫位である。かうして気分はいつも晴々(はればれ)とするやうになつた。物事をおつくうに思ふやうになこともすつかりなくなつてしまつた。今では却つて人手などをわづらわすことは面倒になつてきた。外をあるくにしてもつツつツと平気で歩いてのける。元気は正に百倍するといつた良結果を来(きた)したのである。
精神に無理をせぬこと
が、長命の秘訣は決して食物のみにあるものぢやない、と私は思ふ。勿論、人の性質は百人百様であるからさう一概にもいへまいが、つまらぬことに屈託しないといふのが何としても一ばん肝要な点だらうと思ふ。全て物事は自然に、無理をせずに、うちわうちわにと心がけ、いつも心を安く持ちつゞけることが、必要だらうと考へる。 いつてみれば、経済のことにしても、矢鱈もがき廻つて沢山もうけ、そしてまた矢鱈とつかふ――そんなことも結局はつまらぬ事ではあるまいか? それよりも、足るだけあれば……それでもういゝではないか! 何も無理に、もがきあせる要はあるまい。何事にも足ることを知る生活、無理をせぬ生活、それが一ばん健康には好もしいと思つてゐる。
私は至つて呑気な性分である。物にかまはぬ性質である。だから、人に対する義理などは当然忘れないやうにするが、よくあるやうに人の言動などに一々気を懸けるやうなことは一切したことがない。要するにつまらないことだ。で、勢ひ、私は生れてこの方、いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない、たゞ、こつちがこらへてさへゐれば、何事もなだらかに流れ去つて了ふのだ。つまり激情を発せぬやうにすることが又大きな長寿法の一つであると考へる。
引用元は『サンデー毎日』ではなく、昭和3年(1928)11月8日、文海書院発行、田中正雄著『回春長寿 生の喜び』です。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた各界著名人の体験談等が掲載されています。光雲(数え77歳)以外には、東郷平八郎(同81歳)、渋沢栄一(同89歳)、高橋是清(同75歳)、下田歌子(同75歳)ら13名でした。
この部分は同年の『サンデー毎日』に載ったものの再録だったのでしょう。
それにしても、光雲といえばコッテコテの江戸っ子ですので、「パン食」というのには意表を突かれました。また、江戸っ子ときたら喧嘩っ早いものですが「いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない」。これも実に意外でした。当方、江戸っ子ではありませんが喧嘩っ早いので(笑)。
で、光雲、亡くなったのは昭和9年(1934)、数え83歳の時でした。結局は胃ガンでしたが、現代の平均寿命を上回っていますし、当時としては確かに「長寿」の部類に入りました。数え74で歿した息子の光太郎、この点でも父を超えられなかったことになりますね。
長生きすればいいというものでもありません(政界などには「老害」をまき散らすばかりの迷惑な輩の何と多いことか)が、渋沢翁曰く「責任のある職務に従事して、そのために否応なしに肉体を動かさねばならぬ様に、自ら仕向けねばならぬ」「この体の続く限りは活動を継続する覚悟である」。なるほど、ですね。
【折々のことば・光太郎】
おハガキにある小生の古稀といふやうな事は一切おやめ下さい。還暦の古稀の喜の字のといふうるさい風習は小生好みません。 七十歳を古稀とは今日滑稽です。
「古稀」の語の由来は唐代の杜甫の詩にある「人生七十、古来稀なり」。たしかに戦後のこの時期ともなるとあてはまりませんね。
それにしても、光雲といえばコッテコテの江戸っ子ですので、「パン食」というのには意表を突かれました。また、江戸っ子ときたら喧嘩っ早いものですが「いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない」。これも実に意外でした。当方、江戸っ子ではありませんが喧嘩っ早いので(笑)。
で、光雲、亡くなったのは昭和9年(1934)、数え83歳の時でした。結局は胃ガンでしたが、現代の平均寿命を上回っていますし、当時としては確かに「長寿」の部類に入りました。数え74で歿した息子の光太郎、この点でも父を超えられなかったことになりますね。
長生きすればいいというものでもありません(政界などには「老害」をまき散らすばかりの迷惑な輩の何と多いことか)が、渋沢翁曰く「責任のある職務に従事して、そのために否応なしに肉体を動かさねばならぬ様に、自ら仕向けねばならぬ」「この体の続く限りは活動を継続する覚悟である」。なるほど、ですね。
【折々のことば・光太郎】
おハガキにある小生の古稀といふやうな事は一切おやめ下さい。還暦の古稀の喜の字のといふうるさい風習は小生好みません。 七十歳を古稀とは今日滑稽です。
昭和27年(1952)1月24日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳
「古稀」の語の由来は唐代の杜甫の詩にある「人生七十、古来稀なり」。たしかに戦後のこの時期ともなるとあてはまりませんね。