日本芸術院さんの新会員15人が発表されました。
NHKさん報道。
NHKさん報道。
日本芸術院 新しい会員に倍賞千恵子さんなど15人
芸術の分野で顕著な功績のある人を集めた日本芸術院の新しい会員に、俳優の倍賞千恵子さんなど15人が選ばれることになりました。
「日本芸術院」は功績が顕著な芸術家を優遇するための国の特別機関で、外部の有識者を交えた委員会や会員の投票を経て、新たに15人が会員に選ばれました。
「絵画」の分野からは版画家の中林忠良さん(87)。「工芸」からは、工芸家の大樋年雄さん(66)、本名、奈良年夫さん。「建築・デザイン」からは、建築家の隈研吾さん(70)と建築家の坂茂さん(67)。「写真・映像」からは、写真家の十文字美信(77)さんと、写真家の畠山直哉さん(66)。
「小説・戯曲」からは、小説家の多和田葉子さん(64)。「詩歌」からは、詩人の藤井貞和さん(82)。
「歌舞伎」からは、俳優の中村魁春さん(77)、本名、平野豊栄さん。「文楽」からは、人形遣いの桐竹勘十郎さん(72)、本名、宮永豊実さん。「洋楽」からは、指揮者の尾高忠明さん(77)。「演劇」からは、演出家で劇作家の野田秀樹さん(69)と、俳優の橋爪功さん(83)。「映画」からは、アニメーション監督の富野由悠季さん(83)、本名、富野喜幸さんと俳優の倍賞千恵子さん(83)、本名、小六千惠子さんです。
なかなか錚々たるメンバーですね。
このうちのお三方が、軽く光太郎智恵子に関わります。
まず文楽の桐竹勘十郎氏。
令和3年(2021)にいわゆる人間国宝に指定された際にもお伝えしましたが、NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」に準レギュラーとして時折出演され、文学作品の一節等を人形を遣いながら演じられています。光太郎詩も複数回、氏によって演じられました。
続いて野田秀樹氏。
智恵子を主人公とした演劇「売り言葉」。元々は大竹しのぶさんの一人芝居として野田氏が作られ、平成14年(2002)に南青山スパイラルホールさんを会場に初演されました。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わずさまざまなところで上演されています。来月も兵庫県での公演があります。
最後に建築家の坂茂氏。
昭和6年(1931)、紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町のJR石巻線女川駅は、平成23年(2011)3.11の津波で全壊、同27年(2015)、新しい駅舎が完成しましたが、こちらの設計が坂氏でした。
屋根は海鳥が翼を拡げた形。全国的にも珍しい温泉入浴施設を伴う駅舎で、当方、毎年女川滞在の際にはここで入浴しています。
ところで芸術院というと、我らが光太郎も晩年の昭和22年(1947)と同28年(1953)に会員に推挙されましたが、断っています(最初の推挙の際は前身の帝国芸術院)。
2度目の辞退の際の光太郎談話を数年前に見つけました。12月22日『毎日新聞』東京版に出た「芸術院会員を拒否 “人選に不明朗” 高村光太郎氏が批判」という記事に附されたものです。
芸術院会員とは人格、識見、技量ともわが国で最高の人々がなるべきである。ところが現在の芸術院はその生い立ちが不明朗なため必ずしもそういった人ばかりとはいえない。第二部はともかく第一部(造形美術部門)での初期の人選は民間の美術団体の不平分子のボスたちを黙らせる手段として、芸術院会員というエサを与えてたな上げにしようとした感があり、なかにはそれにふさわしくない人もいる。従って私は現在の芸術院は御破算にして再出発すべきだと思う。また私は彫刻家である。だから第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ
さらに従来知られていた雑誌『新潮』に載った「日本芸術院のことについて――アトリエにて1――」中に、次の一節があります。おそらく、ここで言う「新聞」が上記談話を指していると思われます。
芸術院側としては、「辞退」という「事態」(笑)を想定して居らず(現代ではよくあるようですが)、すったもんだがありました。光太郎に「辞退の理由を書面にして提出せよ」。それに対し光太郎は「そっちが勝手に推薦したのに何で俺が釈明しなきゃいかんのだ」。もっともですね。
ちなみに横山大観は戦前の帝国芸術院時代に会員となりましたが、戦後の昭和25年(1950)になって会員資格を返上しました。これはまたちょっと違うケースですね。
閑話休題、今回の新会員の皆々様方の、今後のさらなるご活躍を祈念いたしております。
【折々のことば・光太郎】
東京は相変らず歳末でごたごたしてゐる事でせう。山はほんにと静かです。
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、厳冬期ともなると訪れる人も少なくなり、煩わしさからは解放されました。
「絵画」の分野からは版画家の中林忠良さん(87)。「工芸」からは、工芸家の大樋年雄さん(66)、本名、奈良年夫さん。「建築・デザイン」からは、建築家の隈研吾さん(70)と建築家の坂茂さん(67)。「写真・映像」からは、写真家の十文字美信(77)さんと、写真家の畠山直哉さん(66)。
「小説・戯曲」からは、小説家の多和田葉子さん(64)。「詩歌」からは、詩人の藤井貞和さん(82)。
「歌舞伎」からは、俳優の中村魁春さん(77)、本名、平野豊栄さん。「文楽」からは、人形遣いの桐竹勘十郎さん(72)、本名、宮永豊実さん。「洋楽」からは、指揮者の尾高忠明さん(77)。「演劇」からは、演出家で劇作家の野田秀樹さん(69)と、俳優の橋爪功さん(83)。「映画」からは、アニメーション監督の富野由悠季さん(83)、本名、富野喜幸さんと俳優の倍賞千恵子さん(83)、本名、小六千惠子さんです。
日本芸術院の新しい会員は、3月1日に発令されます。
なかなか錚々たるメンバーですね。
このうちのお三方が、軽く光太郎智恵子に関わります。
まず文楽の桐竹勘十郎氏。
令和3年(2021)にいわゆる人間国宝に指定された際にもお伝えしましたが、NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」に準レギュラーとして時折出演され、文学作品の一節等を人形を遣いながら演じられています。光太郎詩も複数回、氏によって演じられました。
続いて野田秀樹氏。
智恵子を主人公とした演劇「売り言葉」。元々は大竹しのぶさんの一人芝居として野田氏が作られ、平成14年(2002)に南青山スパイラルホールさんを会場に初演されました。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わずさまざまなところで上演されています。来月も兵庫県での公演があります。

昭和6年(1931)、紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町のJR石巻線女川駅は、平成23年(2011)3.11の津波で全壊、同27年(2015)、新しい駅舎が完成しましたが、こちらの設計が坂氏でした。
屋根は海鳥が翼を拡げた形。全国的にも珍しい温泉入浴施設を伴う駅舎で、当方、毎年女川滞在の際にはここで入浴しています。
ところで芸術院というと、我らが光太郎も晩年の昭和22年(1947)と同28年(1953)に会員に推挙されましたが、断っています(最初の推挙の際は前身の帝国芸術院)。
2度目の辞退の際の光太郎談話を数年前に見つけました。12月22日『毎日新聞』東京版に出た「芸術院会員を拒否 “人選に不明朗” 高村光太郎氏が批判」という記事に附されたものです。
芸術院会員とは人格、識見、技量ともわが国で最高の人々がなるべきである。ところが現在の芸術院はその生い立ちが不明朗なため必ずしもそういった人ばかりとはいえない。第二部はともかく第一部(造形美術部門)での初期の人選は民間の美術団体の不平分子のボスたちを黙らせる手段として、芸術院会員というエサを与えてたな上げにしようとした感があり、なかにはそれにふさわしくない人もいる。従って私は現在の芸術院は御破算にして再出発すべきだと思う。また私は彫刻家である。だから第一部門で選ばれるならわかるが、第二部門では不本意だ
さらに従来知られていた雑誌『新潮』に載った「日本芸術院のことについて――アトリエにて1――」中に、次の一節があります。おそらく、ここで言う「新聞」が上記談話を指していると思われます。
世上、新聞などで、辞退の理由として、現今の芸術院会員の人選について不満があるからといふやうに伝へられたが、これは間違で、現在の人事はまづあんなものだらうと思つてゐる。補充会員の選出方法については又別に意見があるが、それには今触れない。又新聞で、私が彫刻家であるのに文学部門から推せんされたのがをかしいといふので辞退したやうにも言はれたが、これは談笑の間に私が早解りするやうに、「それでは親爺におこられるよ」などといつたからであらう。
当時は第一部(造型美術部門)、第二部(文学部門)の二部構成で、光太郎は詩人として第二部会員に推挙されました。それが彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎のプライドを刺戟したようですし、戦時中、大量に書き殴った翼賛詩によって多くの前途有為の若者を死地に追いやったという悔恨から、詩での栄誉に服することを潔しとしなかったのではないでしょうか。芸術院側としては、「辞退」という「事態」(笑)を想定して居らず(現代ではよくあるようですが)、すったもんだがありました。光太郎に「辞退の理由を書面にして提出せよ」。それに対し光太郎は「そっちが勝手に推薦したのに何で俺が釈明しなきゃいかんのだ」。もっともですね。
ちなみに横山大観は戦前の帝国芸術院時代に会員となりましたが、戦後の昭和25年(1950)になって会員資格を返上しました。これはまたちょっと違うケースですね。
閑話休題、今回の新会員の皆々様方の、今後のさらなるご活躍を祈念いたしております。
【折々のことば・光太郎】
東京は相変らず歳末でごたごたしてゐる事でせう。山はほんにと静かです。
昭和26年(1951)12月24日椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、厳冬期ともなると訪れる人も少なくなり、煩わしさからは解放されました。





