昨年7月に亡くなった作曲家・湯浅譲二氏の「お別れの会」が一昨日、サントリーホールさんで開催されました。
地方紙『福島民報』さん。
地方紙『福島民報』さん。
福島県郡山市出身の作曲家、湯浅譲二さんの功績しのぶ 「あれが阿多多羅山」など流れる 東京都内でお別れの会
昨年7月、94歳で死去した福島県郡山市出身の作曲家で文化功労者の湯浅譲二さんのお別れの会は18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。
音楽関係者ら約200人が参列した。お別れの言葉で、品川萬里郡山市長は「古里を思い、活動を続けていた。湯浅さんの功績と作品は多くの人に受け継がれる」と述べた。作曲家の池辺晋一郎さん、チェリストの堤剛さん、音楽学者の船山隆さん、作曲家の細川俊夫さん、作曲家の伊藤弘之さん、作曲家の藤枝守さん、作曲家のロジャー・レイノルズさんも湯浅さんとの思い出を振り返った。
箏演奏家の吉村七重さん、ピアニストの高橋アキさんが追悼の演奏をささげた。遺族を代表して湯浅さんの長女玲奈さんが「作曲家冥利(みょうり)に尽きる人生だった」とあいさつした。湯浅さんが作曲した「あれが阿多多羅山」などが流れる中、参列者が献花した。
湯浅さんは旧制安積中(現安積高)卒。慶応大医学部を中退し、詩人の滝口修造さんが主宰した前衛芸術家グループ「実験工房」で活動した。幅広い作品を手がけ、優れた邦人作曲家のオーケストラ作品を顕彰する尾高賞を5回受けるなど、数々の栄誉を手にした。国際現代音楽協会名誉会員、郡山市名誉市民。
同じく『福島民友』さん。
郡山出身の作曲家・湯浅譲二さんの功績しのぶ 都内でお別れの会
郡山市出身の作曲家で、昨年7月に94歳で死去した湯浅譲二さんのお別れの会が18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。音楽関係者ら約190人が参列し、日本の現代音楽の発展に貢献した功績をしのんだ。
発起人で作曲家の池辺晋一郎さんや郡山市の品川萬里市長らがあいさつした。品川市長は「湯浅先生は常にふるさとを気にかけてくださった。市民を代表し、先生の作品や思いを末永く継承していくことをお誓いいたします」と湯浅さんの在りし日を振り返り、冥福を祈った。湯浅さんの作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が流れる中、参列者は遺影が飾られた祭壇に献花した。
湯浅さんは国内外で活躍し、オーケストラや室内楽、合唱、電子音楽などを幅広く作曲。テープやコンピューターなど最新技術を駆使するとともに、グラフを用いた独自の作曲法を生んだ。1997年に紫綬褒章、99年に恩賜賞・日本芸術院賞、2007年に旭日小綬章、14年に文化功労者。17年に郡山市名誉市民に選ばれた。
「お別れの会」で流された「あれが阿多多羅山」は、サブタイトルが「バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)をテキストに使った独唱歌曲です。昨年11月に開催された湯浅氏の故郷・福島県郡山市の市制施行100周年記念式典音楽祭でもオーケストラ伴奏で演奏されました。
他にも湯浅氏には光太郎智恵子がらみの作品。作曲のみならず氏が作詞の補作も手がけられ、平成25年(2013)に制定された「二本松市民の歌」では3番までの各番歌詞の末尾が「ほんとの空が ここにある」。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアですね。この曲はご当地体操「ほんとの空体操」の伴奏曲でもあります。
また、智恵子にも触れられた映画「原始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(平成13年=2001)の音楽も、湯浅氏が担当されていました。
当方、DVDを所持しております。
ちなみに氏が亡くなったのは昨年7月ですが、直後に「お別れの会」が計画され始めたようで、発起人には、こちらも昨年亡くなった谷川俊太郎氏のお名前も。お二人のコラボによる楽曲も多く、岩手県や福島県の学校さんの校歌も多数。いろいろと人の縁の不思議さに感じ入っております。
氏の作品(特に「あれが阿多多羅山」、「二本松市民の歌」など)が今後とも愛され続けていってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
小生この頃荒くなつてゐます、小生の内の猛獣性の活躍してゐる證拠です、人間拒否を超えて、
青年期の終わり頃から壮年期にかけ、自らの内部に巣喰う荒ぶる魂を「猛獣」に仮託した連作詩「猛獣篇」が書かれましたが、数え70歳を目前にしたこの時期、再び「猛獣」の胎動を体内に感じています。翌年には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作の話が舞い込み、再び粘土を手にするわけですが、そうした予感があったのかも知れません。
「お別れの会」で流された「あれが阿多多羅山」は、サブタイトルが「バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)をテキストに使った独唱歌曲です。昨年11月に開催された湯浅氏の故郷・福島県郡山市の市制施行100周年記念式典音楽祭でもオーケストラ伴奏で演奏されました。
他にも湯浅氏には光太郎智恵子がらみの作品。作曲のみならず氏が作詞の補作も手がけられ、平成25年(2013)に制定された「二本松市民の歌」では3番までの各番歌詞の末尾が「ほんとの空が ここにある」。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアですね。この曲はご当地体操「ほんとの空体操」の伴奏曲でもあります。
また、智恵子にも触れられた映画「原始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(平成13年=2001)の音楽も、湯浅氏が担当されていました。
当方、DVDを所持しております。
ちなみに氏が亡くなったのは昨年7月ですが、直後に「お別れの会」が計画され始めたようで、発起人には、こちらも昨年亡くなった谷川俊太郎氏のお名前も。お二人のコラボによる楽曲も多く、岩手県や福島県の学校さんの校歌も多数。いろいろと人の縁の不思議さに感じ入っております。
氏の作品(特に「あれが阿多多羅山」、「二本松市民の歌」など)が今後とも愛され続けていってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
小生この頃荒くなつてゐます、小生の内の猛獣性の活躍してゐる證拠です、人間拒否を超えて、
昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳
青年期の終わり頃から壮年期にかけ、自らの内部に巣喰う荒ぶる魂を「猛獣」に仮託した連作詩「猛獣篇」が書かれましたが、数え70歳を目前にしたこの時期、再び「猛獣」の胎動を体内に感じています。翌年には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作の話が舞い込み、再び粘土を手にするわけですが、そうした予感があったのかも知れません。




