今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。
まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。
まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。
東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。
続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。
岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。
戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。
下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。

現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。
続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。
寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。
光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。
もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。
広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。
光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。
年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。
昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳
戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。
下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。

光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。
風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。