昨日、都内で『東京新聞』さんの取材を受けました。光太郎終焉の地にして第一回連翹忌の会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存関係です。そちらが午後だったので、午前中は都内を通り越し、北鎌倉へ。光太郎実妹の令孫夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんで始まった「高村光太郎と尾崎喜八」展を拝見して参りました。

尾崎喜八は光太郎より9歳年少の詩人。光太郎と家族ぐるみの交流がありました。その喜八を偲ぶ「臘梅忌」が本日、喜八の墓のある明月院さん、それからその裏手の笛さんで関係者の方々がお集まりになってこぢんまりと執り行われるのですが、今日は他用のため参列できませんで、昨日のうちにご挨拶かたがた参上した次第です。

まずは明月院さんで墓参。
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中高生と思われるグループが多数。修学旅行か校外学習かというところでしょうが、春や秋でなくてもそうなんだ、という感じでした。

本堂裏手、尾崎家のそれを含む墓所は、通常、一般人の立ち入り不可ですが、喜八令孫の石黒敦彦氏の御名を出して参拝させていただきました。
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こういう場合の常ですが、光太郎の代参のつもりで手を合わせました。
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喜八、妻の實子(光太郎親友の水野葉舟の娘)、そして二人の息女にして、当方もお話を伺ったことのある榮子さん(駒込林町の光太郎アトリエで、智恵子にだっこしてもらったことがおありだそうでした)。

明月院さんを出て、さらに坂を上っていくと、笛さん。
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毎年秋にも光太郎と喜八に関わる展示をなさっているのですが、今回は近くにお住まいの石黒氏が、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿をまとめた書籍『高村光太郎と尾崎喜八』を刊行なさるということで、その記念のイレギュラー開催です。
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ゲラが展示されていて、拝見。
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完成が楽しみです。

他の展示。

まずは喜八夫妻の結婚祝いに光太郎が贈ったブロンズの「聖母子像」(大正13年=1924)。ミケランジェロの同名作品の模刻ですが、一点物です。
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おそらく出版された書籍類には載っていない古写真。

光太郎実妹・しづ(静子)の子息にして、笛の奥さま・加寿子さんのお父さまの結婚式。昭和18年(1943)だそうです。
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光太郎や、光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周も。
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左下は少年時代の光太郎、すぐ下の道利・しづの双子、豊周。
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右上は晩年のしづ、それから幼少期の笛の奥さま。

その他、光太郎と喜八らの写った写真など。
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戦前の一時、尾崎夫妻は杉並に居住していましたが、そのすぐ近くに住んでいて、光太郎や夫妻と交流のあった江戸狄嶺関連も。
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光太郎が江渡のために設計し、江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」。
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なかなかに充実した展示でした。

当方がお邪魔した際にはご主人しかいらっしゃらず、美味なる珈琲をいただいて、「それでは」と、店を後にして北鎌倉駅をめざして坂を下りていると、奥さまが坂を上って来られました。そこでしばし立ち話。さらに奥さまと別れて1分後には、やはり坂を上られる石黒氏と遭遇。笑ってしまいました。4月の連翹忌にはまたお三方とお会い出来そうです。

さて、笛さんでの展示、3月4日(火)までの火・金・土・日曜(今日と2月22日(土)を除く)、11時~16時です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみなつかしくよみました。その後の御消息が分つてよろこびました。小生にもいろいろの事がありましたが結局大変自分の気持にあつた生活の出来るやうになりました。ここで仕事したいと思つてゐます。東京ではとても出来ないやうないい毎日の生活を送ることが出来て感謝してゐます。


昭和26年(1951)9月7日 吉野登美子宛書簡より 光太郎69歳

吉野登美子は元・八木重吉夫人。八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されました。光太郎はその序文や題字を揮毫したりしました。

登美子は戦後、やはり光太郎と交流があって、妻に先立たれていた鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚。この書簡も鎌倉に送られました。