当方も幹事を務めさせていただいている「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が協力して行う講演会です。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄について。当然、光太郎やアトリエの保存運動にも関わる内容となるでしょう。主催は中野たてもの応援団さんです。
期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏
昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏
昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。
桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエが残されています。これは第二次大戦中の建物疎開でアトリエを壊された中西利雄が、その再建のため着工させたものです。しかし中西は病のためアトリエの完成直前に死去。後に高村光太郎が制作の場としました。関東大震災後当地に住み、水彩画の革新者といわれた中西利雄についてご紹介いただきます。
アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。
「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
『中野・中西家と光太郎』。
中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。
皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。
【折々のことば・光太郎】
道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。
中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。
明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。
初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。

アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。
「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
『中野・中西家と光太郎』。
中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。
皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。
【折々のことば・光太郎】
道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。
昭和26年(1951)8月20日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳
中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。
明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。
初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。

