3件ご紹介します。

まず、2月2日(日)『朝日新聞』さん一面コラム。

天声人語

たった一人。白く息を吐きながら、ギュッギュッと新雪を踏みしめていく。教科書で出会った高村光太郎の「道程」は、読みかえすたびにそんな光景を思い起こさせる▼〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。自分の力で人生を切り開く。詩人が決意を文字にしたのは、ある年の2月のこと。詩の舞台は冬というわが想像も、そう間違っていないのかもしれない▼さて、そんな雪景色に今朝は一変しているだろうか。都心を含めた関東甲信では雪が積もるかもしれないと、気象庁が警戒を呼びかけている。交通機関の乱れのおそれもある。気が気でないのは受験生たちだろう▼首都圏では中学受験の熱が高く、いまがピークだ。きのうの早朝は電車の中で、親子連れを何組も見かけた。やや緊張した面持ちの子。マフラーを巻き直してやったりと、何くれとなく世話をやく親。どちらも大変だ。私立大でも入試が始まっている▼週明け以降には、強い寒波がやってくる。暖かい格好で備え、受験会場までの道程では、凍った路面で転んだりせぬようにくれぐれもご注意を▼冒頭の詩は、初出時には100行を超える長い作品だった。そこに、若者へのこんなエールがある。〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ〉。あすは立春。厳しい月日を越えた者に、きっと花は咲く。

引用されている光太郎詩代表作の一つ「道程」は、111年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表されました。その時点では102行の長大なものでした。それが同年10月、詩集『道程』に収められた際にバッサリとカットされ、現在流布している9行の形に。光太郎自身がお蔵入りにした初出形の方もなかなかに味わい深いものです。花巻高村光太郎記念館さんには映像と朗読で光太郎詩を紹介するブースがあり、そちらでベテラン声優の堀内賢雄さんによる朗読が聴けますが、「道程」初出形もラインナップに入っています。102行だけあって約7分にもわたります。

それにしても、謳われてから111年経っても我々の心の琴線にしっかり触れる点、やはり素晴らしいと思います。

続いて同日『産経新聞』さん。

印象派の「後」か「後期」か 日本語メモ

  令和5~6年に開かれた「モネ 連作の情景」展は、東京と大阪で計91万人を動員しました。モネやルノワールら印象派の人気は、彼らに続くゴッホやゴーギャンといった「後期印象派」とともに根強いようです。
 昨年、美術史家の高階秀爾さんが他界されました。高松宮殿下記念世界文化賞で選考委員長(絵画・彫刻部門)も務めた同氏は、「『後期印象派』は誤訳」という文章を残しています(朝日新聞夕刊、平成15年6月4日)。いわく「後期印象派」のもととなった英語「ポスト・インプレッショニズム」の「ポスト」は「以後」という意味だから、「後期印象派」は誤訳である。つまり「後期印象派」では「印象派の後期(後半)の画家」になってしまうのであり、正しくは「印象派の後の画家」である、というわけです。
 高階さんは、民芸研究家の柳宗悦が「後印象派」を雑誌『白樺』(明治45年1月号)で紹介したことに言及。「後印象派」は原語に忠実であるが、すわりが悪く、いつの間にか「後期印象派」という訳語が定着してしまったと書きます。ならば「後期印象派」の初出はいつでしょうか?
 調べてみると『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍が大正2年8月に発行されています。また、同5年9月には『立体派と後期印象派』が作家の久米正雄の翻訳で出ていました。久米はその序文で、木村荘八らの訳文を大いに参考にした旨を記しています。
 柳宗悦がせっかく「後印象派」と正しく訳したのに、いつの間にか定着してしまった「後期印象派」。「後」と「後期」、1文字で意味がまったく異なってしまう翻訳の怖さといったところでしょうか。ちなみに近年では「後期印象派」ではなく「ポスト印象派」と呼称するようです。

002言葉に関するコラムのようです。キーワードは「後期」。「『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍」は、正しくは雑誌『現代の洋画』第17号で、サブタイトルが「後期印象派」。『現代の洋画』は、明治末から大正にかけ、青年画家たちの活動を裏方として支援、我が国洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支えたペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていた北山清太郎が主宰していました。

確かに現代の感覚で「後期」というと、「前期」「後期」あるいは「前期」「中期」「後期」と分けたうちの一つ、「後期印象派」と言ったら「印象派」の一部という感じです。

しかし「ポスト」にあたるうまい日本語が存在せず、北山や編集に当たった光太郎らは仕方なく「後期」の語をあてたのではないでしょうか。あるいは明治末から大正の段階で、「後期」の語の用法が現代と全く同一だったとも言いきれないような気もします。いずれにせよ現代でもうまい訳語がないので「ポスト印象派」としているわけで……。

最後に『日本教育新聞』さん、昨日の掲載記事です。

サトー先生の「きょういく日めくり」~きょうも楽しく学校へ行くために~【第19回】「いつの間にか」が名人ワザ

003 導入(ツカミ)はおもしろいけど授業始まったら睡眠タイム……新米教員時代のボクに、ぜひ見せてやりたかったなあ、E先生の名人ワザを。
 「プロ野球で二刀流と言えばだれかな?」『大谷!』「そのとおり。大谷選手の出身地はどこ?」『北海道や』『福島?』『岩手』「正解!」。
 思ったことを自由に言える雰囲気が教室にあった。
 「岩手県の花巻東高出身。彼のおねえさんと野球部のコーチがその後結婚して」
 マニアックな芸能ネタは、やがてご当地岩手県花巻の、わんこそばや満州ニララーメン(通称「マニラ」)などの麺類紹介へ。「先生それ全部食べたんか?」と思わず生徒が聞くほどの、リアルな食レポ情報がぽんぽん飛び出すうち、
 「……でもな、岩手でラーメン食べたら、そのあとぜひ、「元祖二刀流」のすごい人の家に行っといで。その人の名は、ジャジャーン。高村光太郎!」
 「タカムラ?」といぶかる生徒たちをものともせず、当時、日本を代表する彫刻家かつ詩人の、「元祖二刀流」偉人・高村光太郎について一気に解説。
 「でも、もともと光太郎は岩手の人じゃない。東京のど真ん中に住んでたのが、敗戦後、屋根まで雪に埋まる山の中へ逃げるように移り住んだ。自分で「小屋」とさげすむ小さな家。あっ、その家の写真、資料プリントにあるから見てよ。二刀流成功者の家やのに、なんとちっぽけな。実はこの人、戦時中に「戦争バンザイ」という詩をいっぱい書いてしまって……」
 大谷選手の話が高村光太郎に移り、やがて資料集や教科書の年表を駆使した従軍作家や戦争文学の話へと展開―繰り広げられる本格的「授業」!
 いつの間にか引きずり込むのが名人ワザ。導入「方法」を参観に行ったボクが、完全に授業「内容」に引き込まれ、ひとつカシコくなりました。
佐藤功(さとう・いさお。大阪大学人間科学研究科元教授)

当方も講演や市民講座のツカミで、大谷選手の二刀流から光太郎の二刀流へと振ることをよくやっています(笑)。日本中の学校さんでこういう授業が展開されてほしいものです。ただ、「元祖二刀流」は光太郎ではなく宮本武蔵ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】004

人の来ない夜に書き、別封で同送しました。天といふ字はむつかしく、二十枚書いた中の四枚だけ選びました。


昭和26年(1951)8月11日 
草野心平宛書簡より 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。光太郎はこれ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。

「彫刻」「詩」の二刀流として語られることの多い光太郎ですが、「書」を入れて「三刀流」としてもいいくらいです。