1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で取り上げられました光太郎の親友であった碌山荻原守衛に関して、続編が1月26日(日)に出ました。前回もそうでしたが、見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。
引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。
右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。
引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。
2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。
ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。
「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。
翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。
山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。
布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。
主を失った部屋にその「女」(1910年)は一人残されていた。この像を制作した年の4月20日、荻原守衛(碌山)は新宿中村屋で血を吐いた。そして、その2日後、30歳で逝った。あまりに唐突な死だった。
地面にひざまずき、手を後ろ手に組み、体をねじり上げるようにして上空を見る女性像。まるで捕虜になったかのようにも、見えない何かにとらわれているようにも見える。実際にやってみれば分かるが、かなり苦しい体勢だ。しかし、その表情には何かを悟ったかのような高貴さがある。
モデルを務めたのは岡田みどりという女性だった。しかし、その顔は中村屋の経営者で、相馬愛蔵の妻、黒光によく似ている。黒光自身も残された像を見て、碌山が誰を思って制作したのか、悟らざるを得なかったようだ。「単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」(相馬黒光「黙移」)
この作品に賭ける思いは強かった。友人の高村光太郎がアトリエを訪れた際に碌山は、完成間近の「女」を「やはり、どうにも気に入らない」と破壊しようとした。高村は慌てて、それを止めたという。また、別の友人、戸張孤雁は部屋の中で、薄着で震えている碌山の姿を目撃している。服は、制作中の「女」にかけてあった。
確かに「女」は黒光への思いから生まれたものではあったのだろう。碌山美術館の武井敏学芸員は「『女』の姿は、士族の家に生まれながら貧しさにも苦しみ、夫、愛蔵の愛人問題など人生の苦難を乗り越えてきた黒光の姿に重なる」と話す。
一方で、作品は一個人への恋慕の情にとどまらない精神性も感じさせる。黒光は進んで学び、芸術への理解もある教養の高い女性だった。「良妻賢母という旧習にとらわれることなく、自由な生き方を求めたこの時代の女性たちの姿が投影されている」(武井学芸員)ようにも見える。碌山が表現したかったのは黒光に代表される、この時代における総体としての「女」そのものだったのではないだろうか。
碌山の愛は、届くことはなかった。黒光は苦しみながらも愛蔵を許し、その後も子供をもうけた。碌山の悩みは深かった。高村ら友人に送った手紙に胸の内を明かしている。「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「惨めだ。僕は失ってしまった。いやまだ失っていないが」。「文覚」(1908年)や「デスペア」(1909年)では、黒光への恋心から生まれた苦しみや絶望を作品に込めた。
しかし、「女」の表情は負の感情を感じさせるどころか、どこか晴れやかですらある。そこには、碌山自身の心境の変化も表れているようにみえる。武井学芸員は「苦境を受け入れ、これからは高みを目指していこうという前向きな意志も感じさせる」と指摘する。だとすれば、次に碌山はどんな作品を生み出したのだろうか。残念ながら、それを確かめる術はない。
碌山自身ももちろん、これが絶作になるとは知るよしもない。しかし、不思議なことに「女」を見るうちどこかでこれが最後の作品になることを知っていたのではないかと思えてくる。内面から輝くような生命の美を彫刻に求めた碌山の理想が全て刻み込まれた、まさに集大成の出来栄えだ。
碌山の彫刻家としてのキャリアはパリ時代を含めても4年ほどにすぎない。帰国後に限ればたった2年だ。恐るべき才能であったといえる。そのあふれるほどの才能は黒光と再会することで、苦しみとともにではあったが発露を見た。「女」には碌山の命そのものが凝縮されている。
「女」はその年の10月、碌山の兄から委託され、東京美術学校鋳金科に在学中の山本安曇が鋳造した。文展にも出品されたが、結局、3等に終わった。真の価値が認められるまでには、半世紀の時を要した。67年「女」の石こう型は、日本の近代彫刻で初めての重要文化財に指定された。

前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。
引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。
右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。
引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。
2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。
ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。
昭和26年(1951)7月14日 照井欣平太宛書簡より 光太郎69歳
「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。
翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。
山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。
布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。