まずは訃報を1件。共同通信さん配信記事から。

堀場清子さん死去 94歳 詩人、女性史研究家

 詩人で女性史研究家の堀場清子(ほりば・きよこ=本名鹿野清子=かの・きよこ)さんが10日、午前10時15分、老衰のため千葉県の高齢者施設で死去した。94歳。広島県出身。葬儀は行った。喪主は夫で歴史学者の鹿野政直(かの・まさなお)さん。
 共同通信記者を経て、詩作と評論の道へ。被爆体験に基づく「原爆詩」を詠んだほか、高群逸枝ら女性史家を研究した。戦後の連合国軍総司令部(GHQ)占領下での検閲の実態にも迫った。詩集「首里」で現代詩人賞。著書に「青鞜の時代」「禁じられた原爆体験」「堀場清子全詩集」など。
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記事にある『青鞜の時代』(昭和63年=1988 岩波書店)が手元にあります。智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の創刊から終焉、さらに後日談までを端的にまとめたものですが、『青鞜』そのものや主宰の平塚らいてうらの筆による事務日誌、同時代のさまざまな文献などを細かく検証、大いに参考になりました。
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残念ながら絶版となっているようですが、復刊を期待します。

もう1件、「訃」のからみで、地方紙『福島民報』さんから。1月25日(土)掲載の一面コラムです。

大空で(1月25日)

石垣りんの詩にある。〈お母さん、なぜ過ぎてゆかねばならないのですか、花は美しく、空はあんなに青い、このはるの 光あふれる中から―。〉▼19歳の予備校生はなぜ突然、将来を絶たれたのか。自宅から遠く離れた北のまちかどで。冬の日差しが緩んだ風をまとい、地上に届き始めたこの時。無念などという言葉では言い尽くせない。大学受験で郡山市を訪れた大阪府の横見咲空[さら]さんが、酒気帯び運転の犠牲になった。その命を返してあげる手だてはない▼「白が似合う女性だった」。事故現場に駆け付けた同級生が語っていた。笑顔を絶やさぬ、明るく素直な人柄だったとも。心の奥に純真を秘めていたのだろう。歯学部への進学を志していた。怖くないよ、お口を大きくあけてごらん―。治療を怖がる子どもを、にこやかになだめる。優しい未来の歯医者さんを奪った暴走が、ひたすら憎い▼詩は続く。〈お嬢さん お嬢さん 雲が流れてまいります どこへ流れてゆくのでしょう あれあれあんなに はるばると〉。咲空さん。せめて、さえぎるものは何もないほんとの空で、存分に夢を咲かせて。あなたを守れなかった悔しさを胸に、県民は願っているよ。<2025・1・25>

1月22日(水)に郡山市で起きた痛ましい死亡事故に関してです。ここで「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を持ってくるか、という感じでしたが、じんとくるものがありました。お名前に「空」一字の入る亡くなられた方は、同市の奥羽大学さん歯学部を受験予定だったとのこと。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の保管を願つてゐる院長さん、真壁さん、貴下には自然紙絵をもらつていただく結果になるでせう。これは当然でせう。

昭和26年(1951)6月30日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

千数百枚あった紙絵は、智恵子とも親しかった当会の祖・草野心平らに贈られた他、戦時中に約3分の1ずつ、花巻の佐藤隆房(院長さん)、山形の真壁仁、そして茨城の宮崎の元に分散疎開の措置を講じ、おかげで焼失を免れました。

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開催されると、画集として出版したいという申し出が複数の出版社からありましたが、全て拒絶。宮崎には「宮崎さんから高村先生を説得して下さい」的な話があっても断るようにと釘を刺したようです。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の劣悪な環境では、紙絵の保存も覚束ないということで、「貴下には自然紙絵をもらつていただく結果になるでせう」。宮崎の妻・春子は智恵子の姪にあたり、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付添婦を務め、殆ど唯一紙絵の制作現場を直に見ていた人物だということもあるのでしょう。

ところが、光太郎は結局「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その終焉の間際にほとんどの紙絵を手元に返却して貰うことになります。