昨日は、今年初めての上京でした。

まずは初詣を兼ねて、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんへ。押すな押すなというほどではありませんでしたが、善男善女(当方を除く)でかなりの人出でした。
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まずは当然ですが本堂に参拝。
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大枚5円(笑)を賽銭箱に投入、合掌し、今年一年、平穏無事でありますように、的な祈願を。

なぜわざわざ足立区に、というと、本堂から見えるこちらの三匝堂(さんそうどう)拝見が主目的です。
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このところ、光太郎の父・光雲や、その師・東雲の彫刻を各地で拝見しておりまして、その流れです。こちらにも光雲によるとされる木彫の扁額が掲げられているという情報を以前から得ており、いい機会だと思って参上しました。
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一見、三重の塔のようにも見えますが、三層の楼閣で、いわゆる「栄螺(さざえ)堂」の一種です。天保5年(1834)に建てられ、明治17年(1884)に改修。光太郎が生まれた翌年ですね。

階段は外部にしつらえてあります。元は堂内にも階段があったそうですが、改修の際に取り払われたとのこと。
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栄螺堂でも、有名な会津飯盛山のそれは二重螺旋階段になっていますが、あれはかえって特殊なものです。

内部は拝観出来ません。しかし、当方が見たかったのは軒下に掲げられた扁額。
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中央に刻まれた数字の「3」のような文字は梵字ですね。

そして周囲を取り囲む龍。
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足立区さんのサイトによれば、これが光雲の手によるものだと伝わっている、とのこと。伝わっている、ということは確定ではないのでしょうが、この精緻な彫りは確かに光雲を彷彿とさせられます。ただ、明治17年(1884)の改修の際のものであるとすれば、光雲は独立はしていたものの、まだ一流の職人と認められていなかった時期ですので、疑義が生じます。光雲が斯界でブイブイ言わせるようになるのは、明治20年(1887)に皇居の造営に関わり、さらに同22年(1889)に東京美術学校に奉職してから。しかし、いきなり皇居の内部装飾に抜擢されたとも考えにくく、西新井大師さんのこうした仕事などでその技倆を認められたからなのかな、とも考えられます。

参拝後、世田谷の下北沢へ。当方、公共交通機関で上京する際には東京駅に降り立つのがほとんどで、東京駅を起点に考えると西新井と下北沢では真逆ですが、西新井に近い北千住から小田急線直通の地下鉄千代田線に乗れば意外と便はよく、そうしました。

目指すは本多劇場さん。お世話になっている渡辺えりさんの古稀記念公演が行われています。
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本多劇場さんは、令和元年(2019)にやはり渡辺さん作の「私の恋人」を拝見に伺って以来でした。

今回の古稀公演は「鯨よ!私の手に乗れ」と「りぼん」の2本立て。
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昨日は「鯨……」でした。「りぼん」の方で、光太郎詩「道程」に触れる箇所があるというお話でしたが、招待枠で「りぼん」を観に行ける日がなく、「鯨……」を拝見。「鯨……」でも光太郎に触れる部分があるかなと思っていたのですが、残念ながらそれはありませんでした。

「鯨……」は、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されながら、笑いあり涙あり、なかなかに壮大な物語でした。えりさんは古稀ですが、共演されていた木野花さんは喜寿というのには驚きましたし、共演と言えば、黒島結菜さんは小顔だな、とつくづく思いました(えりさんが顔が大きいとは言いませんが(笑))。ベテランの三田和代さん、広岡由里子さん、宇梶剛士さん、ラサール石井さんらの芸達者ぶり、若い役者さんたちも、劇中で楽器の生演奏やらダンスやらで芝居を盛り上げています。

下記は公式パンフ中の「りぼん」の部分から。
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「道程」がプロパガンダに利用された一面、確かにあるでしょう。詩集『道程』の初版は大正3年(1914)ですが、日中戦争中の昭和15年(1940)には山雅房から「改訂版」が出、同17年(1942)にはそれを対象に光太郎が第一回帝国芸術院賞を受賞しています。「改訂版」は豪華本的な「150部限定版」、普通の装丁の「書店版」、そして簡易な造本の「普及版」の三種が発行され、「普及版」は昭和18年(1943)の9刷まで確認出来ています。
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左から「150部限定版」、「書店版」、「普及版」です。

ちなみに当方手持ちの「普及版」はサイン入りです。
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小池吉昌はマイナーな詩人でした。

プロパガンダ、というと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」もそういう使われ方をしました。本当に不幸な時代だったと言わざるを得ませんね。

ところで光太郎、「道程」が戦意高揚に使われることに違和感を感じる部分もあったようで、大戦末期の昭和20年(1945)になって、さらに青磁社から『道程再訂版』を出しました。こちらは戦時に関する詩を全く含まず、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えています。消極的な抵抗のようにも思えます。

その年4月10日、下町方面の空襲がひどいと言うことで、えりさんのお父さま・渡辺正治氏が勤務していた中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場から自転車で本郷区駒込林町に光太郎の安否を確認に来ました。その際に「わざわざありがとう」と、光太郎が正治氏に贈ったのがこの「再訂版」です。しかし、3日後の空襲で光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰してしまいます。
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えりさん、そういう部分でも「道程」への思い入れがあるのでしょう。

古稀記念公演、夜の部はまだ空席があるようです。それから西新井大師さん。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小屋に手入をはじめる事になり、ごたごたとしてゐます、

昭和26年(1951)4月15日 出雲正明宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、増築工事が始まりました。明確な印税制を採らなかった『智恵子抄』版元の龍星閣の肝煎りです。