やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。
記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。
時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。
所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。
威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。
「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。
光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。
ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。
自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。
【折々のことば・光太郎】
お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。
結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。
父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
「風つよければ 神さまは 靴のかかとに 棲す み給う」
父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。
時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。
所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。
威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。
「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。
光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。
ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。
自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。
【折々のことば・光太郎】
お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。
昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳
結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。