昨日、初日の出を見に行って参りました。以前は昭和9年(1934)に智恵子が半年あまり療養生活を送った豊海村(現・九十九里町)まで出向いておりましたが、ここ数年は自宅兼事務所隣町の旭市でご来光を拝んでおります。
午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
そこそこの人出。
南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
千鳥(?)の足跡。
日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
そして……。
毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。
ほんとうにそういう一年であってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。
藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。
南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
千鳥(?)の足跡。
日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
そして……。
毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。
ほんとうにそういう一年であってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。

昭和26年(1951)1月4日
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳
藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。