今年一年を振り返る最終回です。「芸術の秋」ということで、この3ヶ月が最も事項の多い時期でした。
10月1日(火)
岩波書店さんから『図書』10月号が発行されました。中村佑子氏「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」を含みます。
10月1日(火)~12月22日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで「ハニワと土偶の近代」展が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。
10月3日(木)~11月17日(日)
福島県二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子 レモン祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、生家ライトアップ、坂本富江氏による「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演などが行われました。
10月4日(金)・10月5日(土)
当会から『光太郎資料』62集を発行しました。
10月5日(土)~11月30日(土)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「令和6年度高村光太郎記念館企画展 高村光太郎 書の世界」が開催されました。
10月8日(火)~11月19日(火)
神奈川県鎌倉市の笛ギャラリーさんで「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」が開催されました。
10月9日(水)・10月10日(木)
名古屋市のHITOMIホールさんで「HITOMIホールプリズムステージ 朗読と音楽が紡ぐ愛、「智恵子抄~田園交響楽より~」」公演がありました。
10月10日(木)~10月14日(月)
新宿区の雑遊さんで「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」公演がありました。智恵子を主人公とした一人芝居、野田秀樹氏の脚本でした。
台東区のレンタルギャラリーブレーメンハウスさんで朗読イベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」が開催され、当方も光太郎について語らせていただきました。
10月12日(土)~2025年1月13日(月)
文京区立森鷗外記念館さんで特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」が開催され、光太郎書簡も展示されました。
10月13日(日)
岩手県花巻市の土沢商店街さん、萬鉄五郎記念美術館さん前を会場に「土澤アートクラフトフェア」が開催され、やつかの森LLCさんによる「こうたろう弁当」、花巻南高校家庭クラブさんによる「レモンケーキ」が振る舞われました。
10月14日(月)
福島県二本松市の智恵子生家近くで「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が開催されました。光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボードが設置され、その除幕式を兼ねての実施。ボードの題字揮毫は書家の菊地雪渓氏でした。
10月17日(木)
美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。光太郎に触れる玉稿等もおありでした。
10月18日(金)~10月27日(日)
渋谷区の黒田陶苑さんで「五十五周年記念 特別展 【 粋 II 近代巨匠名品展】」が開催され、光太郎色紙が展示即売されました。
10月18日(金)~12月15日(日)山口県宇部市のときわ湖水ホールさんで「彫刻世界 かたち・つくり・ひらく」展が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。
10月19日(土)~11月17日(日)
金沢市の石川県立歴史博物館さんで「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」が開催され、光太郎の父・光雲作の聖観音像が展示されました。
10月23日(水)
10月23日(水)
国書刊行会さんから藤井明氏著『明治・大正・昭和 メダル全史』が刊行されました。光太郎作のメダルも紹介されました。
10月24日(木)
兵庫県西宮市の県立芸術文化センターさんで「関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?」公演があり、別宮貞雄氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。
神奈川県逗子市の旧逗子高等学校武道場において「余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏」上演があり、聖和学院中学校・髙等学校美術部さんによる「智恵子抄」朗読がありました。
10月26日(土)~12月1日(日)
荒川区のふるさと文化館さんで「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展 鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」が開催され、光雲に関わる展示も為されました。
10月27日(日)
岩手県花巻市のなはんプラザCOMZ ホールさんで「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」が開催され、生前の光太郎をご存じの元宮沢賢治子供の会会員のお二人、賢治実弟清六令孫・宮沢和樹氏と当方による公開対談が行われました。
同日、京都市の文星堂さんで「文星堂 定期演奏会 秋の音楽会」が開催され、「智恵子抄」から詩篇の朗読がありました。
さらに同日、大阪市のATC海辺のステージさんで「第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「あどけない話」が演奏されました。
同日、京都市の文星堂さんで「文星堂 定期演奏会 秋の音楽会」が開催され、「智恵子抄」から詩篇の朗読がありました。

11月3日(日)
福島県郡山市のけんしん郡山文化センターさんで「郡山市市制施行100周年記念式典音楽祭」が開催され、湯浅譲二氏作曲「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」が演奏されました。
11月4日(月)
広島市の日本キリスト教団 広島流川教会さんで演奏会「広島中央合唱団 Autmun Concert~Can't wait for Christmas~」が開催され、鈴木憲夫氏作曲の「混声合唱曲 レモン哀歌」が演奏されました。
11月5日(火)
江東区の豊洲シビックセンターホールさんで「サウンド・ランドスケープ Vol.4~現代音楽の今~」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」より「僕等」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」が演奏されました。
11月8日(金) ・11月22日(金)・ 12月13日(金)
NHKカルチャーさんのオンライン講座「心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編」が行われ、光太郎詩「あどけない話」が教材として使用されました。講師は朗読家・神戸女学院大学非常勤講師、川邊暁美氏でした。
中野区のなかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が開催され、保存運動が展開されている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエを中心とした展示が行われました。関連行事として11月10日(日)、渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。
11月13日(水)
戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎氏が亡くなりました。「二十億光年の孤独」他初期の詩集を光太郎に贈り、礼状を受け取られていました。
同日、BSよしもとさんで「又吉・せきしろのなにもしない散歩 #137」が放映され、福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館が取り上げられました。再放送が11月15日(金)でした。11月17日(日)
千葉市の千葉大学さんキャンパスで、光雲が原型を制作し、戦時中の金属供出で失われていた長尾精一胸像が再建されました。
11月18日(月)~12月13日(金)
仙台市の東北大学附属図書館さんで「東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示 チベット仏教の精華」が開催され、光雲作の木彫釈迦如来座像が出品されました。
11月20日
青土社さんから中野敏男氏著『継続する植民地主義の思想史』が刊行されました。第三章が「近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」でした。
11月21日(木)~11月24日(日)
杉並区の荻窪小劇場さんで「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」が上演されました。茶山千恵子さんによる一人芝居、一柳みるさん、西山水木さん、小飯塚貴世江さんによる宮崎春子「紙絵のおもいで」朗読でした。
11月23日(土)
文京区の文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」が開催されました。発表は熊谷健一氏「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」、大島裕子氏「智恵子について、今思うこと」でした。
11月23日(土)~2025年1月19日(日)
栃木県那須塩原市の那須野が原博物館さんで「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」が開催され、光雲作の「松方正義像」が出品されました。
12月1日(日)
白水社さんから雑誌『ふらんす』2024年12月号が発行されました。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」を取り上げた仏文学者の鹿島茂氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が載っています。
12月7日(土)
『岩手日報』さんに掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。昨年11月の花巻高村光太郎記念館さん企画展 、今年6月のイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」での智恵子のエプロン復刻などについてご紹介して下さいました。
12月1日(日)
白水社さんから雑誌『ふらんす』2024年12月号が発行されました。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」を取り上げた仏文学者の鹿島茂氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が載っています。
12月7日(土)
『岩手日報』さんに掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。昨年11月の花巻高村光太郎記念館さん企画展 、今年6月のイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」での智恵子のエプロン復刻などについてご紹介して下さいました。
12月7日(土)・12月8日(日)
金沢市の金沢美術工芸大学さんで「カナビフォトフェス」が開催され、光雲令曾孫・髙村達氏撮影による光雲、光太郎彫刻の大判写真が展示されました。
12月7日(土)~2025年1月26日(金)
花巻市の高村光太郎記念館さん他で、同一テーマによる「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」展が開催されました。高村光太郎記念館さんでは「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」と題した展示でした。
12月10日(火)
文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の第十九号が発行されました。中野区の中西利雄アトリエ保存に関する記事、当方の連載「連翹忌通信」などが掲載されました。
同日、中央公論新社さんから辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』が発行されました。光太郎詩碑を取り上げた「よみがえった「一億の号泣」碑」、光雲原型作のモニュメントに触れた「東の靖国、西の護国塔」という章を含みます。
さらに同日、中央公論新社さんから『中央公論』2025年1月号が発行されました。東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」が取り上げられています。
同日、中央公論新社さんから辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』が発行されました。光太郎詩碑を取り上げた「よみがえった「一億の号泣」碑」、光雲原型作のモニュメントに触れた「東の靖国、西の護国塔」という章を含みます。
12月12日(木)
報道されたのが先週末でして、項目を設けてご紹介しませんでしたが、京都の清水三年坂美術館さん館長の村田理如氏が亡くなりました。いわゆる「超絶技巧」系の明治工芸の蒐集に力を入れられ、現在、山梨県立美術館さんを巡回中の「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展など、多くの展覧会にご協力、ご自身でも関連行事としての講演会講師なども務められました。
12月14日(土)~2025年2月11日(火)
広島県呉市の呉市立美術館さんで「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が出品されました。
12月15日(日)
福島県二本松市で「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいが開催され、『記念文集』、坂本富江氏著絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』が発行されました。
12月20日(金)~12月22日(日)
世田谷区のAPOCシアターさんで、「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花の家」が上演されました。光太郎智恵子をモチーフとした人物が登場する演劇でした。
最後は年間通しての話になりますが、毎月15日、花巻市の道の駅はなまき西南さん内のテナント・ミレットキッチンフラワーさんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が販売されました。また、同じく花巻市のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に8回「こうたろうカフェ」。共に主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の日記などを元にメニューを考案、「こうたろうカフェ」では調理も担当なさいました。
いろいろあった1年間でした。ご関係の皆様のさらなるご活躍とご健勝を祈念いたします。同時に、来年も今年を上回る勢いでいろいろあることを期待いたします。
【折々のことば・光太郎】
晶子会発起人中へ加はる事は承諾いたします、 歌碑の方の御相談については御返事を保留して、もつと考へます、多分小生には無理でせう、やはり建設の場に居ないとやりにくいと思ひます、
与謝野晶子の一番弟子を自負していた中原綾子。顕彰のための会を起ち上げ、晶子の弟分だった光太郎にも協力を要請しました。
最後は年間通しての話になりますが、毎月15日、花巻市の道の駅はなまき西南さん内のテナント・ミレットキッチンフラワーさんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が販売されました。また、同じく花巻市のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に8回「こうたろうカフェ」。共に主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の日記などを元にメニューを考案、「こうたろうカフェ」では調理も担当なさいました。
いろいろあった1年間でした。ご関係の皆様のさらなるご活躍とご健勝を祈念いたします。同時に、来年も今年を上回る勢いでいろいろあることを期待いたします。
【折々のことば・光太郎】
晶子会発起人中へ加はる事は承諾いたします、 歌碑の方の御相談については御返事を保留して、もつと考へます、多分小生には無理でせう、やはり建設の場に居ないとやりにくいと思ひます、
昭和25年(1950)12月29日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳
与謝野晶子の一番弟子を自負していた中原綾子。顕彰のための会を起ち上げ、晶子の弟分だった光太郎にも協力を要請しました。