平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。
まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。
高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。
せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。
続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
【折々のことば・光太郎】
もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。
まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。
続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。
三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。
ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。
光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。
で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。
三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。
ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。
光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。
で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。
【折々のことば・光太郎】
もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、
昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。