いきなり自分の名が出て来たので「ありゃま」という感じでした。
『岩手日報』さん、12月7日(土)に掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。
去年の秋、小山弘明さんが呼びかけた。氏は、彫刻家で詩人の高村光太郎の研究家。「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座での一声に、最前列にいた勤務校の文芸部員とわたしは、目を上げた。光太郎の妻智恵子のデザインのエプロンの図面が、大スクリーンに映っている。
もとは高村夫妻が寄稿していた『婦人之友』の百年前の号に載る。この雑誌は青森県八戸市出身の羽仁(はに)もと子と、吉一(よしかず)の夫妻が創刊。「家庭から良い社会を作ろう」を理念に今に至る。
ここに何度も寄稿した芸術家同士だからこそ、エプロンには二人の暮らしぶりがうかがえるのでは。なぜか、小山さんがわたしたちへ声をかけている気がした。ついでなぜか、バトンを手渡すように勤務校の家庭クラブに持ちかけた。快諾をもらい、智恵子のエプロン復刻プロジェクトが走り出す。
講座後、光太郎の食を通して顕彰する「やつかの森合同会社」の方々と知り合い、寸劇や朗読を披露いただいた。その方々と、光太郎が名づけた「花巻賢治子供の会」の元会員の方を囲み、彼と直(じか)に交流した思い出をうかがう。「高校生と一緒にできてうれしい。」という一言が、わたしたちにはうれしい。
改めて知る宮沢賢治の、花巻の、岩手の「恩人」である彼の足跡。この地の雲を見、土を嗅ぎ、雪積むうちにほりさげた、自己流謫(るたく)としての戦後七年間の山荘暮らしとその詩。実際、訪問者が結構いたとか。一方、「花巻における光太郎を知る会」では、彼の日記を読み、当時をつぶさに描く時間をいただいた。
去る六月。花巻市太田地区振興会主催「五感で楽しむ光太郎ライフ」での発表に、これらがみな、つながった。百名あまりの参加者を前に、勤務校の文芸部員がエプロンの復刻のいきさつを説明。一年生は、光太郎が取りに語りかける詩「クロツグミ」を、三年生は、まさにこの季節の詩「若(も)しも智恵子が」を、一心に朗読した。「もしも智恵子が私といつしよに/(略)いま六月の草木の中のここに居たら、/(中略)サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。」
昼食は、光太郎のレシピによるそば粉のガレットロールやパンケーキ、鶏肉のコンフィほか。味わううちに、そのテーブルに光太郎と智恵子が、むこうには羽仁夫妻もいて、サファイヤ色の昼の食事にほほえむ気配がする。
さて、復刻エプロン姿の家庭クラブ一年生が登場するや場内がどよめいた。智恵子が実家の酒屋で使っていた柿渋染めの酒袋を再利用したエプロンの復刻には、発見があいつぐ。
図面と酒袋の縦の長さはほぼ同じ。生地がむだなく使え、そこから智恵子の身長は約一五〇㌢と推定できる。酒袋は防水・防腐効果があり、生地が固くミシン針が折れるくらい。だが、丈夫で長持ちする。中央のポケットも大きい。三角形の胸のデザインは授乳しやすく工夫したもので、古代更紗(さらさ)で縁を飾り、さすが、しゃれている。
講評では、「伝えていく人がいるから、その人のことが伝わる。」と、小山さん。うなずきながら、受けとめるときも伝えるときも、新しい景色を見、世界が開かれていくようにと思う。たどり着くところはわからないが、進むべき方向は決まっている。わたしたちのリレーとはきっと、そのようなものだ。
この十月、智恵子の命日五日の「レモン忌」も近く、家庭クラブは詩「レモン哀歌」にちなむレモンケーキを完成した。月半ば、土澤アートクラフトフェアで「やつかのもり」の方々が販売する「こうたろう弁当」に添えプレゼント。喜ばれた。同じ頃文芸部は、たしかに目を見張る走りをした「復刻智恵子のエプロン」特集を部誌に載せ、その人の故郷、福島県二本松市の智恵子記念館へとどけた。
どちらも、どこへつながり、どのような景色が見えるかわからない。胸が鳴る。わたしたちは本日も「継走中」。
実に熱く語って下さいました。ありがとうございました。
冒頭の「「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座」は、昨年11月。花巻高村光太郎記念館さんで当方が講師を務めさせていただきました。
盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった吉田幾世とのつながりをご紹介するものでしたが、学校や吉田自身が深く関わった雑誌『婦人之友』への光太郎智恵子の寄稿や受けた取材の話の中で、「智恵子のエプロン」にふれたところ、興味を持って下さったというわけです。
そのお披露目が今年6月。文中にある通り、イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の一環でした。
その後も家庭クラブさんは「レモンのパウンドケーキ」、文芸部さんは部誌『門』と、継続しての取り組み。ありがたし。
さらに活動が発展していくことを願って已みません。
【折々のことば・光太郎】
東北はまだ暑いです。こんなに暑くては東北に居る甲斐がありません。来年はどこかの山へ避暑しようかと思つてゐます。
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、標高としてはそれほどでもなく、また、とにかく夏の暑さには弱かった光太郎、残暑に悩まされていたようです。
「来年はどこかの山へ」は結局実現しませんでした。翌年には持病の結核性の肋間神経痛が悪化したのも一因でしょう。
『岩手日報』さん、12月7日(土)に掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。
「だれか、智恵子さんのエプロンを作ってくれませんかね。」
去年の秋、小山弘明さんが呼びかけた。氏は、彫刻家で詩人の高村光太郎の研究家。「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座での一声に、最前列にいた勤務校の文芸部員とわたしは、目を上げた。光太郎の妻智恵子のデザインのエプロンの図面が、大スクリーンに映っている。
もとは高村夫妻が寄稿していた『婦人之友』の百年前の号に載る。この雑誌は青森県八戸市出身の羽仁(はに)もと子と、吉一(よしかず)の夫妻が創刊。「家庭から良い社会を作ろう」を理念に今に至る。
ここに何度も寄稿した芸術家同士だからこそ、エプロンには二人の暮らしぶりがうかがえるのでは。なぜか、小山さんがわたしたちへ声をかけている気がした。ついでなぜか、バトンを手渡すように勤務校の家庭クラブに持ちかけた。快諾をもらい、智恵子のエプロン復刻プロジェクトが走り出す。
講座後、光太郎の食を通して顕彰する「やつかの森合同会社」の方々と知り合い、寸劇や朗読を披露いただいた。その方々と、光太郎が名づけた「花巻賢治子供の会」の元会員の方を囲み、彼と直(じか)に交流した思い出をうかがう。「高校生と一緒にできてうれしい。」という一言が、わたしたちにはうれしい。
改めて知る宮沢賢治の、花巻の、岩手の「恩人」である彼の足跡。この地の雲を見、土を嗅ぎ、雪積むうちにほりさげた、自己流謫(るたく)としての戦後七年間の山荘暮らしとその詩。実際、訪問者が結構いたとか。一方、「花巻における光太郎を知る会」では、彼の日記を読み、当時をつぶさに描く時間をいただいた。
去る六月。花巻市太田地区振興会主催「五感で楽しむ光太郎ライフ」での発表に、これらがみな、つながった。百名あまりの参加者を前に、勤務校の文芸部員がエプロンの復刻のいきさつを説明。一年生は、光太郎が取りに語りかける詩「クロツグミ」を、三年生は、まさにこの季節の詩「若(も)しも智恵子が」を、一心に朗読した。「もしも智恵子が私といつしよに/(略)いま六月の草木の中のここに居たら、/(中略)サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。」
昼食は、光太郎のレシピによるそば粉のガレットロールやパンケーキ、鶏肉のコンフィほか。味わううちに、そのテーブルに光太郎と智恵子が、むこうには羽仁夫妻もいて、サファイヤ色の昼の食事にほほえむ気配がする。
さて、復刻エプロン姿の家庭クラブ一年生が登場するや場内がどよめいた。智恵子が実家の酒屋で使っていた柿渋染めの酒袋を再利用したエプロンの復刻には、発見があいつぐ。
図面と酒袋の縦の長さはほぼ同じ。生地がむだなく使え、そこから智恵子の身長は約一五〇㌢と推定できる。酒袋は防水・防腐効果があり、生地が固くミシン針が折れるくらい。だが、丈夫で長持ちする。中央のポケットも大きい。三角形の胸のデザインは授乳しやすく工夫したもので、古代更紗(さらさ)で縁を飾り、さすが、しゃれている。
講評では、「伝えていく人がいるから、その人のことが伝わる。」と、小山さん。うなずきながら、受けとめるときも伝えるときも、新しい景色を見、世界が開かれていくようにと思う。たどり着くところはわからないが、進むべき方向は決まっている。わたしたちのリレーとはきっと、そのようなものだ。
この十月、智恵子の命日五日の「レモン忌」も近く、家庭クラブは詩「レモン哀歌」にちなむレモンケーキを完成した。月半ば、土澤アートクラフトフェアで「やつかのもり」の方々が販売する「こうたろう弁当」に添えプレゼント。喜ばれた。同じ頃文芸部は、たしかに目を見張る走りをした「復刻智恵子のエプロン」特集を部誌に載せ、その人の故郷、福島県二本松市の智恵子記念館へとどけた。
どちらも、どこへつながり、どのような景色が見えるかわからない。胸が鳴る。わたしたちは本日も「継走中」。
実に熱く語って下さいました。ありがとうございました。
冒頭の「「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座」は、昨年11月。花巻高村光太郎記念館さんで当方が講師を務めさせていただきました。
盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった吉田幾世とのつながりをご紹介するものでしたが、学校や吉田自身が深く関わった雑誌『婦人之友』への光太郎智恵子の寄稿や受けた取材の話の中で、「智恵子のエプロン」にふれたところ、興味を持って下さったというわけです。
そのお披露目が今年6月。文中にある通り、イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の一環でした。
その後も家庭クラブさんは「レモンのパウンドケーキ」、文芸部さんは部誌『門』と、継続しての取り組み。ありがたし。
さらに活動が発展していくことを願って已みません。
【折々のことば・光太郎】
東北はまだ暑いです。こんなに暑くては東北に居る甲斐がありません。来年はどこかの山へ避暑しようかと思つてゐます。
昭和25年(1950)9月16日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、標高としてはそれほどでもなく、また、とにかく夏の暑さには弱かった光太郎、残暑に悩まされていたようです。
「来年はどこかの山へ」は結局実現しませんでした。翌年には持病の結核性の肋間神経痛が悪化したのも一因でしょう。