一昨日、12月8日(日)の『北海道新聞』さん一面コラム。
光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。
真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。
その前後も併せて紹介します。
時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。
結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。
以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。
『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。
驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。
「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。
話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。
もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。
つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。
【折々のことば・光太郎】
「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。
光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。
重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた▼人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった▼真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。
光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。
真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。
その前後も併せて紹介します。
時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。
結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。
以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。
『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。
驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。
いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。
「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。
話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。
もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。
つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。
【折々のことば・光太郎】
「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。
昭和25年(1950)9月9日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳
光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。