明日、明後日と2日間限りの展示です。
期 日 : 2024年12月7日(土)・12月8日(日)
会 場 : 金沢美術工芸大学4号館アートコモンズA 石川県金沢市小立野2-40-1
時 間 : 12/7 10:00~17:00 12/8 10:00~14:00
料 金 : 無料
金沢でなかなか実機を触る機会が無い、というお悩みをここで解決しようと、各企業様のご協力を得て開催する撮影機材展示会です。カメラはもちろん、照明や周辺機器も取り揃え、プロのテクニックや著作権を学ぶ講座も同時開催します。
光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周(会場の金沢美術工芸大学さん名誉教授)の令孫にして写真家の髙村達氏が、「髙村光雲、高村光太郎、彫刻の写真をフレスコジクレーA0にプリント作品も展示致します」とのことです。
「ジクレー」はファイン紙、A0は紙の大きさの規格で841mm×1189mm。一般的なA4サイズの実に16枚分ですね。
同様のパネルは東京藝術大学大学美術館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」、そして光太郎実家にして現在も達氏がお住まいの旧本郷区駒込林町155番地に隣接する旧安田楠雄邸庭園さんにおける「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」などでも展示されました。小さい画像ではわかりにくい細部まで確認できるのは素晴らしいと思いました。
また、達氏、8日にはセミナー講師も務められるとのこと。
ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
琅玕洞の広告を発見されたやうですが、この高村道利といふのは小生の次の弟で、例のドイツへ行つた言語学研究をしてゐた死んだ弟です。この弟の生活保障といふことも琅玕洞経営の半分の動機だつたのです。
「琅玕洞(ろうかんどう)」は、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる本格的な画廊。「広告」は当時の雑誌『方寸』などに載りました。
道利は光太郎の3歳下。東京外国語学校を卒業後、当時の徴兵制の関係もあり、おそらく1年志願兵で横須賀の要塞砲兵第二聯隊に入り、除隊後、琅玕洞の名目上の店主となりました。ただしあまり熱心に仕事はしませんでした。それもあって琅玕洞は1年でつぶれます。その後道利は、子供の頃から艦艇オタクでしたし、横須賀での軍隊生活が面白かったのでしょうか、職業軍人になることを考えましたが、父・光雲に反対されます。さらにドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲が却下。すると、半ば自暴自棄となり、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。
長男光太郎が家督相続を放棄、次男道利は行方不明、そこで三男豊周が髙村家を嗣ぎました。髙村家は戸籍上は「高村」ですが、慣習として「髙」の字を使い、しかし光太郎は「俺は分家だから」と、戸籍通りに「高」の字を使い続けました。
道利は、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と髙村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。
さて、当会の祖・心平。この頃、中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の編集を始めたようで、その中で明治期の琅玕洞広告を目にしたようです。ことによると『選集』編集に際して元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏が心平に貸した光太郎関連スクラップに入っていたのかも知れません。
光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周(会場の金沢美術工芸大学さん名誉教授)の令孫にして写真家の髙村達氏が、「髙村光雲、高村光太郎、彫刻の写真をフレスコジクレーA0にプリント作品も展示致します」とのことです。
「ジクレー」はファイン紙、A0は紙の大きさの規格で841mm×1189mm。一般的なA4サイズの実に16枚分ですね。
同様のパネルは東京藝術大学大学美術館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」、そして光太郎実家にして現在も達氏がお住まいの旧本郷区駒込林町155番地に隣接する旧安田楠雄邸庭園さんにおける「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」などでも展示されました。小さい画像ではわかりにくい細部まで確認できるのは素晴らしいと思いました。
また、達氏、8日にはセミナー講師も務められるとのこと。
ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
琅玕洞の広告を発見されたやうですが、この高村道利といふのは小生の次の弟で、例のドイツへ行つた言語学研究をしてゐた死んだ弟です。この弟の生活保障といふことも琅玕洞経営の半分の動機だつたのです。
昭和25年(1950)8月30日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳
「琅玕洞(ろうかんどう)」は、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる本格的な画廊。「広告」は当時の雑誌『方寸』などに載りました。
道利は光太郎の3歳下。東京外国語学校を卒業後、当時の徴兵制の関係もあり、おそらく1年志願兵で横須賀の要塞砲兵第二聯隊に入り、除隊後、琅玕洞の名目上の店主となりました。ただしあまり熱心に仕事はしませんでした。それもあって琅玕洞は1年でつぶれます。その後道利は、子供の頃から艦艇オタクでしたし、横須賀での軍隊生活が面白かったのでしょうか、職業軍人になることを考えましたが、父・光雲に反対されます。さらにドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲が却下。すると、半ば自暴自棄となり、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。
長男光太郎が家督相続を放棄、次男道利は行方不明、そこで三男豊周が髙村家を嗣ぎました。髙村家は戸籍上は「高村」ですが、慣習として「髙」の字を使い、しかし光太郎は「俺は分家だから」と、戸籍通りに「高」の字を使い続けました。
道利は、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と髙村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。
さて、当会の祖・心平。この頃、中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の編集を始めたようで、その中で明治期の琅玕洞広告を目にしたようです。ことによると『選集』編集に際して元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏が心平に貸した光太郎関連スクラップに入っていたのかも知れません。