先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。
別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
① 気合いの入ったモンブランが食べたい
② 美味しい新蕎麦が食べたい
③ 御朱印が欲しい
④ 紅葉も見たい
笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。
さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。
入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。
さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。
下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。
続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。
ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
この段階ですでに紅葉が見事です。
茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。
入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。
直筆の方にはキャプションも。
ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。
ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
さて、改めて建物内。
魯山人が実用していたという衣桁。
こちらもいい感じの木彫が施されています。
魯山人の陶芸作品。
唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
庭もいい感じでした。
逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
少し離れた場所には長屋門もありました。
そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。
最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。
茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。
【折々のことば・光太郎】
「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。
別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
① 気合いの入ったモンブランが食べたい
② 美味しい新蕎麦が食べたい
③ 御朱印が欲しい
④ 紅葉も見たい
笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。
さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。
入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。
さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。
下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。
続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。
ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。
また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。
また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。
そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
この段階ですでに紅葉が見事です。
茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。
入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。
直筆の方にはキャプションも。
ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。
ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
さて、改めて建物内。
魯山人が実用していたという衣桁。
こちらもいい感じの木彫が施されています。
魯山人の陶芸作品。
唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
庭もいい感じでした。
逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
少し離れた場所には長屋門もありました。
そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。
最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。
茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。
【折々のことば・光太郎】
一、お茶 [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、
昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。