光太郎の父・光雲の木彫関連で2件。

まずは長野県。松本平地区を中心に発行されているタウン紙的な『MGプレス』さん記事。

えびす・大黒像の「里帰り祭」松本市の深志神社「商都松本」の伝統継承 商売繁盛願い込め60年近く続く行事

 松本市の深志神社と境内の恵比寿(えびす)神社で18~20日、商家の神とされる「えびす」の祭りが行われた。深志神社特有の祭りが、個人や企業などが所有するえびす、大黒像を年に1度神社へ持参し、商売繁盛の運気を高める「里帰り祭」。にぎわいを見せた「商都松本」の伝統を継承しようと60年近く続く行事だ。
 恵比寿神社(本町一丁目所有)では、江戸時代中期から祭りが行われたようだ。現在は19日に恵比寿神社、20日に深志神社でえびす祭を実施している。
 その前の18日に行う里帰り祭。深志神社の牟禮(むれ)仁宮司(76)によると、始まったのは1967(昭和42)年ころ。希望者に提供したえびすや大黒像を神社に「里帰り」させてもらい、「この1年の無事への感謝と、今後の繁栄を祈念する」趣旨だという。
 今年の祭りで里帰りした像は約70体。中には伊勢町生まれで幕末から明治の彫刻家・原田蒼渓(そうけい)(1835~1907年)、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)の作品も持ち込まれた。
 同神社氏子総代会会長の春日孝介さん(75、深志1)が持参した像には、足裏に「立川内匠富昌」の文字が書かれている。江戸時代に諏訪立川流の建築彫刻の作風を確立した二代目立川和四郎富昌(わしろうとみまさ)(1782~1856年)の作品の可能性がある。春日さんは「普段は家の神棚に飾っている。家を代々守っていくことがないと、こうしたものは残っていかないので、大切にしていきたい」と話した。
011
なるほど、ずらりと並んだ恵比寿/大黒天像、壮観ですね。記事にあるものが光雲の真作かどうかは不明ですが、贋作であってほしくないものです。

記事では詳細が判らないのですが、持ちよられたこれらの像、そのまま奉納されるわけではないのでしょうね、いくら何でも。

もう1件、既に始まっている企画展示の情報で、栃木県から。

開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原

期 日 : 2024年11月23日(土)~2025年1月19日(日)
会 場 : 那須野が原博物館 栃木県那須塩原市三島5-1
時 間 : 午前9時~午後5時まで
休 館 : 月曜日(休日の場合は開館)、年末年始(12月29日~1月3日)
料 金 : 一般 300円(250円)、高校生・大学生 200円(150円)
      小学生・中学生 100円(50円) ※( )内は20名以上の観覧料

明治時代に政治家・財政家として活躍した松方正義は、那須野が原の開拓に大きな影響を与えた人物でした。没後100年を迎える令和6年を機に、松方正義の一生を取り上げ、人物像に焦点を当てながら、政界における事績をたどります。また、正義と那須野が原の関係について注目し、正義が那須野が原開拓に及ぼした影響と展開された農場経営の実像を探ります。

012
013
関連事業
 記念講演会①「那須野が原開墾と松方正義」
  日時 11月30日(土)午後2時~4時 講師松方峰雄氏(松方家当主)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 記念講演会②「松方正義の鹿児島県における評価~その生涯と功績~」
  日時 12月7日(土)午前10時~12時 講師原口泉氏(志學館大学教授)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 記念講演会③「松方正義・巌と千本松農場」
  日時 12月14日(土)午前10時~12時講師金井忠夫氏(那須野が原博物館特別研究員)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 別邸見学会
  日時 12月1日(日)①午前9時~12時、②午後1時~4時
  講師 松方峰雄氏(松方家当主) 三野進一氏(那須千本松牧場本部長)
     金井忠夫氏(那須野が原博物館特別研究員)
  会場 松方別邸定員各20人(先着順)
  内容 松方別邸の内部見学 費用 1,000円
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

松方正義は明治の元勲。その子、松方三郎も国立西洋美術館さんの元となった「松方コレクション」で有名ですね。フライヤー裏面に画像が載っていますが、光雲が制作した松方の銅像原型(明治24年=1891)が出品されています。
無題 015
木彫原型は東京藝術大学大学美術館さんの所蔵で、借り受けての出品です。

銅像の写真は全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍から。同書刊行の昭和3年(1928)の時点では、この銅像、那須に立っていたことになっているのですが、現存しているのでしょうか? 
017
「高村幸吉」は光雲の通称(本名は「光蔵(みつぞう)」でしたが、高村東雲に弟子入りの際、呼びにくい、と、「幸吉」に改めさせられました)、「岡崎庄次郎」は岡崎雪声の本名です。

ネットで調べても、松方の地元・鹿児島に立つ別の像の情報しか見つかりません。おそらく戦時中の金属供出にやられてしまったのかな、と思っておりますが、情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

また、原型の制作年は明治24年(1891)と記録されているのに対し、銅像は明治41年(1908)建立と、20年近くタイムラグがあります。このあたりも謎ですね。こうなると現地に足を運んでみなきゃ、というのが当方の悪癖なのですが(笑)。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたは殊に父上を敬愛して居られましたから、今度どんなに力落としをされたかと思つて申し上げる言葉もありません。どうか勇気をふるひ起してください。 人の生死は人力の及ぶところではありません。小生も夙に覚悟をきめて居ります。たゞ命のある限り人生を信じてゆくに過ぎません。


昭和25年(1950)7月5日 相馬文子宛書簡より 光太郎68歳

相馬文子は、光太郎と同年だった歌人・相馬御風の息女。御風の逝去を知らせる書簡を光太郎に送り、その返信の一節です。