都内レポートの第3弾です。
11月23日(土)、荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」、上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」をそれぞれ拝観後、東京ドーム近くの文京シビックセンターさんに向かいました。こちらでは「第67回高村光太郎研究会」。
年一回の開催で、今年のご発表はお二人。智恵子の故郷・福島二本松の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏。
熊谷氏の発表題は「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」。
智恵子と光太郎がどのようにお互いに影響を与えつつ歩んでいったのかといったような点につき、智恵子の地元で顕彰活動に当たられているお立場から。
大島氏の方は、「智恵子について、今思うこと」。おおむね2本立てで、まずは氏が以前に明らかにされた智恵子の縁談について、さらに詳しく。
様々な研究書や、智恵子に関する二次創作等で、明治45年(1912)の時点で智恵子には郷里の医師・寺田三郎との縁談が持ち上がっていたものの、智恵子はそれを断って、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎の元に走った(光太郎が滞在していた犬吠埼まで追いかけていった)とされてきました。その話の大元は、昭和48年(1973)の第17回連翹忌の集いの席上、参加していた寺田の実弟・四郎が行ったスピーチでした。
ところが、寺田三郎は既に明治41年(1908)に結婚、智恵子との縁談があったとされる同45年(1912)には2人の子まで為していました。智恵子との縁談が持ち上がったのはもっと前、同40年(1907)頃、昭和48年(1973)の時点で上記のスピーチをした四郎ももう高齢で、70年近く前の話でもあり、記憶違いがあったのだろうとのこと。
それでは明治45年(1912)の智恵子の縁談というのは何だったのか、ということになります。大島氏は寺田三郎以外の誰かと縁談があったのでは、と推測されています。傍証はこの時期に書かれた智恵子の親友・田村俊子の小説類。
「Yさん」というのが光太郎のことですね。
実際に誰かと縁談があった可能性が高いでしょう。それがいつ作られたか詳細は不明ですが、婚儀用の豪華な打掛も残っていますので、ほぼ話は纏まっていたのではと推測されます。
ただ、恋愛問題に対して煮え切らない態度を取っていた光太郎に対し、ありもしない縁談をでっち上げて、光太郎の気持ちを確かめようとしたという可能性も捨てきれません。今後、そのあたりが解明されていくことを期待します。
さらに大島氏、昭和4年(1929)の智恵子の実家・長沼酒店破産前後の福島の地方紙報道から、智恵子や親族の動向なども。なかなか興味深い内容でした。
研究発表会は年に一度。会報的な『高村光太郎研究』が年刊で4月の連翹忌に合わせて発行されています。だいたい前年の発表者が発表内容を元に論文的なものを寄稿する慣例です(全くそれを無視した意味不明のものが載っている場合もあって閉口しているのですが)。それ以外に当方は新発見の光太郎文筆作品を紹介する「光太郎遺珠」、それから1年間を振り返る「高村光太郎没後年譜」を任されています。研究会に入会し、会費3,000円を納めれば送られてくるシステムです。
そういうわけで研究誌としてのレベルはあまり高いものではありませんが、参加のハードルもそれほど高くない点はいいところでしょう。奥付画像を載せておきますので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。主宰の野末氏、毎年の発表者の確保に苦労されているようですし。
【折々のことば・光太郎】
11月23日(土)、荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」、上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」をそれぞれ拝観後、東京ドーム近くの文京シビックセンターさんに向かいました。こちらでは「第67回高村光太郎研究会」。
年一回の開催で、今年のご発表はお二人。智恵子の故郷・福島二本松の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏。
熊谷氏の発表題は「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」。
智恵子と光太郎がどのようにお互いに影響を与えつつ歩んでいったのかといったような点につき、智恵子の地元で顕彰活動に当たられているお立場から。
大島氏の方は、「智恵子について、今思うこと」。おおむね2本立てで、まずは氏が以前に明らかにされた智恵子の縁談について、さらに詳しく。
様々な研究書や、智恵子に関する二次創作等で、明治45年(1912)の時点で智恵子には郷里の医師・寺田三郎との縁談が持ち上がっていたものの、智恵子はそれを断って、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎の元に走った(光太郎が滞在していた犬吠埼まで追いかけていった)とされてきました。その話の大元は、昭和48年(1973)の第17回連翹忌の集いの席上、参加していた寺田の実弟・四郎が行ったスピーチでした。
ところが、寺田三郎は既に明治41年(1908)に結婚、智恵子との縁談があったとされる同45年(1912)には2人の子まで為していました。智恵子との縁談が持ち上がったのはもっと前、同40年(1907)頃、昭和48年(1973)の時点で上記のスピーチをした四郎ももう高齢で、70年近く前の話でもあり、記憶違いがあったのだろうとのこと。
それでは明治45年(1912)の智恵子の縁談というのは何だったのか、ということになります。大島氏は寺田三郎以外の誰かと縁談があったのでは、と推測されています。傍証はこの時期に書かれた智恵子の親友・田村俊子の小説類。
「Yさん」というのが光太郎のことですね。
実際に誰かと縁談があった可能性が高いでしょう。それがいつ作られたか詳細は不明ですが、婚儀用の豪華な打掛も残っていますので、ほぼ話は纏まっていたのではと推測されます。
ただ、恋愛問題に対して煮え切らない態度を取っていた光太郎に対し、ありもしない縁談をでっち上げて、光太郎の気持ちを確かめようとしたという可能性も捨てきれません。今後、そのあたりが解明されていくことを期待します。
さらに大島氏、昭和4年(1929)の智恵子の実家・長沼酒店破産前後の福島の地方紙報道から、智恵子や親族の動向なども。なかなか興味深い内容でした。
研究発表会は年に一度。会報的な『高村光太郎研究』が年刊で4月の連翹忌に合わせて発行されています。だいたい前年の発表者が発表内容を元に論文的なものを寄稿する慣例です(全くそれを無視した意味不明のものが載っている場合もあって閉口しているのですが)。それ以外に当方は新発見の光太郎文筆作品を紹介する「光太郎遺珠」、それから1年間を振り返る「高村光太郎没後年譜」を任されています。研究会に入会し、会費3,000円を納めれば送られてくるシステムです。
そういうわけで研究誌としてのレベルはあまり高いものではありませんが、参加のハードルもそれほど高くない点はいいところでしょう。奥付画像を載せておきますので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。主宰の野末氏、毎年の発表者の確保に苦労されているようですし。
【折々のことば・光太郎】
一、お茶 [六月廿五日発送]右受領候也 六月廿七日 純粋な川根のお茶はまことに美味、丁度もらつた八戸せんべいがあるので申分ありません
澤田は『智恵子抄』版元の龍星閣主。光太郎、澤田からのさまざまな贈り物に対し、几帳面に受領証的な返信を続けました。「八戸せんべい」は南部煎餅ですね。
昭和25年(1950)6月27日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
澤田は『智恵子抄』版元の龍星閣主。光太郎、澤田からのさまざまな贈り物に対し、几帳面に受領証的な返信を続けました。「八戸せんべい」は南部煎餅ですね。