3件ご紹介します。

まず、過日ご紹介した浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024について、11月16日(土)の『読売新聞』さん。

【京の浄土宗・秋】照り映える紅葉心休めて

 古都の山々がようやく、彩りをまとい始めた。
 浄土宗総本山・知恩院(京都市東山区)は、紅葉の名所としても知られる。14日から夜間拝観が始まり、三門や御影堂、大鐘楼などが約800基のライトで照らされる。
 見どころのひとつが、女坂近くの友禅苑。京友禅の祖、宮崎友禅の生誕300年を記念し、1954年に造園された1万2000平方メートルの庭園だ。
 入り口近くの 補陀落池(ふだらくいけ)の中央に高村光雲作の聖観音菩薩立像がたつ。周辺のイロハモミジは色づきが早く、燃えるような紅色が 水面みなも にも照り映える。あでやかさは息をのむほどだ。
 12月1日までの期間中、僧侶から話を聞いたり、念仏をとなえたりする体験などもある。深まりつつある秋に、心を休めるひとときが味わえる。
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画像の美しさが際立っていますね。

彫刻つながりでもう1件、同じく11月16日(土)の『朝日新聞』さん土曜版。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載です。

マイ走馬灯 千本日活とヌー銅たち

 「これから京都に行く人にお勧めの場所はどこですか?」
 と今まで何度も聞かれ、その都度、グッとくる仏像のおられるお寺を紹介してきたが、「お寺以外で」と言われると大変困るのだ。
 京都で生まれ育ち、18歳の夏までいたことは確かだけど、僕はみんなが喜びそうな所をほとんど知らない。それでもしつこく聞かれた時は「あくまで僕にとっての思い出深い場所ですよ」と断りを入れてから答えるのが、西陣千本と呼ばれている地帯なのだが、そこにある『千本日活』という映画館にはよくお世話になった。まるで時が止まったようなそのノスタルジックな建物は今でも健在。一見の価値ありと思うのだが、また「それ以外で何か?」と、問われてしまうのがオチだ。
 その路地にひしめく銅像は、右から“サックスを吹くヌー銅”、“ブラウスだけ羽織ったヌー銅”、“十和田湖のツイン・ヌー銅”と、ヌー石“ダビデ像”。そして左右下は映画『少林寺木人拳』の木製のカラクリ人形。そして夕焼け空には、やっぱ『ウルトラセブン』のメトロン星人がよく似合う。

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ヌー銅」、笑えます。

最後は『陸奥新報』さん、11月18日(月)の掲載分。

一流書家の筆の使い方に高校生「すごい」

 日本書道文化協会による書家の高校派遣事業が16日、弘前高校で行われた。現代の言葉を漢字仮名交じりで書く「近代詩文書」の講習が行われ、同校書道部の部員19人が書家の金子大蔵さんら講師に手本を書いてもらい、添削やアドバイスを受けた。
 同事業は日本の書道のユネスコ無形文化遺産登録に向け、若手の育成を目的として同協会が行っている。同校では初めてで、県内で2校目となった。
 金子さんは同協会会員で、日展準役員、毎日展審査会員、創玄展一科審査会員を務めている。今年7月には最年少50歳で第75回毎日書道展文部科学大臣賞を受賞。祖父は「近代詩文書の父」と言われる鷗亭さん、父は毎日芸術賞を受賞した卓義さんと、親子3代にわたって書道に携わっている。
 同日は金子さんの席上揮毫(きごう)から始まった。「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人」という高村光太郎の詩の一節で、同校の求める人物像でもある言葉をしたため、部員らは一流の書家の揮毫から学びを得ようと熱心に金子さんの手元を見たり、動画を撮ったりした。
 その後2、3年生は金子さん、1年生は助講師で同校OGの今和希子さんにそれぞれ手本を書いてもらって作品制作を行い、金子さんらは部員らが書いた作品の添削や講評を行った。
 部長の小山内実優さん(2年)は「筆の使い方やかすれの出し方がすごかった。言葉の意味に合わせて字の太さや大きさを自在に変えていて、いつもとは違う表現を見ることができた」と語った。
 金子さんは「高校生がどういう言葉を選んで、どう表現したいのか、言葉と対話して一人一人の感性を想像しながら手本を書いた。普段習っている先生とは違う表現に触れることで刺激になって、表現の幅が広がるといいと思う」と期待を寄せた。
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書家の金子大蔵氏、光太郎詩の一節を大書した書を多数展示した「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」をやられたこともおありの方です。記事にあるお祖父様の故・金子鷗亭氏も光太郎詩を好んで取り上げられました。

今回、大蔵氏が書かれたのは、「少年に与ふ」(昭和12年=1937)の一節。全文はこちら

今後とも、彫刻に詩に、光雲や光太郎の作品が愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包拝受、何かしらと思ひましたら好物の食パンだつたので大いによろこびました。それも東京製の本格的な白パンなので早速晩餐に用ゐました、丁度小岩井のバタとオランダのチーズがありましたので、幾年かぶりで本当の洋食をいただきました、


昭和25年(1950)6月5日 小田島喜兵衛宛書簡より 光太郎68歳

「食」がらみの内容なので、昨日ご紹介すべきでした。