アンソロジーものの新刊です。2ヶ月程経ってしまいましたが。
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円
喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!
目次
発行日 : 2024年8月28日(水)
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円
喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!
目次
序
プロローグ 気分爽快 森高千里
1杯目 つぎたてのビール――まずはビール。とりあえずビール
いつかきっと 田村セツコ
缶と瓶 細馬宏通
ビールのある風景 山本精一
西陽の水面とビール 高山なおみ
イギリス湖水地方のラガー 高柳佐知子
ビールの遍在性とさりげないやさしさについて 小野邦彦
脳内反芻ビール 小山田 徹
サバティカルはミュンヘンで 喜多尾道冬
2杯目 泡は大事――ビールは泡ごとググッと飲め
ビールの泡 田中小実昌
泡だらけ伝授 阿川佐和子
ビールは泡あってこそ 東海林さだお
原則の人 伊丹十三
ビールは小瓶で 長田 弘
モクモクモク 嵐山光三郎
ビールは泡ごとググッと飲め 草野心平
3杯目 ビール、もう一杯!――こんな日はとりわけビールがうまいんだ
虚無の歌 萩原朔太郎
モーツァルトmozart 村上春樹
軽い酔 牧野信一
飢えは良い修業だった アーネスト・ヘミングウェイ 福田陸太郎 訳
とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平
ビールと女 獅子文六
白に白に白 大道珠貴
鍋貼 小川 糸
ふきのとう 姫野カオルコ
ビールに操を捧げた夏だった 夢枕 獏
七月 ビール炊き御飯 金子信雄
富士日記(抄) 武田百合子
モンスターと夜景 雪舟えま
人生がバラ色に見えるとき 石井好子
飲み、食べ、颯爽と嫌う 城 夏子
ビール 大橋 歩
炎天のビール 山口 瞳
コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、
ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。 池波正太郎
4杯目 旅先のビール――頭のテッペンから足の先までが、キューッとしびれる
あほらしい唄 茨木のり子
灰色の菫 田村隆一
2019年5月3日 小沢健二
この世で一番おいしいビール 氷室冴子
道草 吉田健一
鹿児島カンビール旅 椎名 誠
温泉津旅行記 川本三郎
京洛日記 二十一、食堂車 室生犀星
鴎外先生とビール 平松洋子
ビールの話 岩城宏之
パブ 加藤秀俊
ベルギーぼんやり旅行 七色ビール篇 向田邦子
ネパールのビール 吉田直哉
デンマークのビール 北大路魯山人
欧洲旅行(抄) 横光利一
ニュー・イングランドの浜焼 中谷宇吉郎
父の麦酒のジョッキーと葉巻切り 森 茉莉
5杯目 ビール飲み――飲みたければ、たんとお飲みなさい
渓流 中原中也
未練 内田百閒
植木鉢 土岐雄三
明るいうちに飲むなら蕎麦屋 与那原恵
第55夜 まつや【神楽坂】 秘密基地の伝声管 鈴木琢磨
初めての飲み会 瀧波ユカリ
ビールの歌 火野葦平
父の七回忌に 幸田 文
われこそはビール飲み 野坂昭如
はじめてのビール 沢野ひとし
ワインとビールがいっぱい 渡辺祥子
ビールの味 高村光太郎
編者あとがき ビールは飲む「窓辺」であり「風景」である。 早川茉莉
底本一覧
ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。
表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。
心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。
そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。
バア学校のシンボルは。
時代おくれの大時計。
二十一世紀を告げる鐘。
さらばで御座る。
酒はぐいのみ。
ビールは泡ごと。
バア学校の常連は。
世にも稀なる美男美女。
落第つづけの優等生。
しからばそうれ。
半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。
ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。
さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。
特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、
光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。
平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。
ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。
表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。
心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。
そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。
バア学校のシンボルは。
時代おくれの大時計。
二十一世紀を告げる鐘。
さらばで御座る。
酒はぐいのみ。
ビールは泡ごと。
バア学校の常連は。
世にも稀なる美男美女。
落第つづけの優等生。
しからばそうれ。
酒はぐいのみ。
ビールは泡ごと。
半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。
ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。
さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。
特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、
昭和25年(1950)3月15日 森口多里宛書簡より 光太郎68歳
光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。
平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。
黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が“美の世界の巨人”であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。