都内から企画展情報です。
② オリジナル月餅プレゼント 10月29日(火・開館記念日)
③ 荻原守衛生誕140年記念講演(お食事付き) 12月1日(日) 11:00~ 約150分
演 題 荻原守衛と日本近代彫刻
講 師 古田亮氏 東京藝術大学大学美術館準教授
参加費 3,000円
光太郎の盟友、碌山荻原守衛の生誕140年を記念した企画展です。「親交を結んだ芸術家たちの作品」ということで、光太郎の作品も展示されます。チラシには「腕」(大正7年=1918)が掲載されていました。安曇野市の碌山美術館さん所蔵のものです。
同展と、それから碌山美術館さんで開催中の「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」につき、『朝日新聞』さんが報じています。
それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
己は己だ この己だ 己は自由を喜び 己は常に歩いてゐる 己は己の通りな芸術を作るのが何よりの願ひだ
この詩の2年前に急逝した盟友・碌山も同じようなことを考えていたのではないでしょうか。
生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念「荻原守衛展 彫刻家への道」
期 日 : 2019年9月14日(土)~12月8日(日)
前期:9月14日(土)~10月29日(火)
後期:11月1日(金)~12月8日(日)
前期:9月14日(土)~10月29日(火)
後期:11月1日(金)~12月8日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
時 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
料 金 : 300円 ※高校生以下無料 障がい者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料
休館日 : 毎週火曜日(10月22日(祝)、29日(火・開館記念日)は開館 )日本近代美術史に名を刻む「中村屋サロン」の中心人物、「日本近代彫刻の父」とも呼ばれた荻原守衛。
石膏原型が日本近代彫刻として初めて重要文化財に指定された、絶作「女」を生み出すまでの荻原の軌跡を、 師事したロダンや親交を結んだ芸術家たちの作品と共に展示し、荻原芸術の神髄に迫ります。
関連行事
① ギャラリートーク 10月12日(土)・11月9日(土) 各14:00~② オリジナル月餅プレゼント 10月29日(火・開館記念日)
③ 荻原守衛生誕140年記念講演(お食事付き) 12月1日(日) 11:00~ 約150分
演 題 荻原守衛と日本近代彫刻
講 師 古田亮氏 東京藝術大学大学美術館準教授
参加費 3,000円
光太郎の盟友、碌山荻原守衛の生誕140年を記念した企画展です。「親交を結んだ芸術家たちの作品」ということで、光太郎の作品も展示されます。チラシには「腕」(大正7年=1918)が掲載されていました。安曇野市の碌山美術館さん所蔵のものです。
同展と、それから碌山美術館さんで開催中の「荻原守衛生誕140周年記念特別企画展 傑作《女》を見る」につき、『朝日新聞』さんが報じています。
荻原守衛、彫刻史に残した足跡 生誕140周年、長野と東京で展覧会
1910年に30歳の若さで亡くなりながら、日本の近代彫刻史に大きな足跡を残した荻原守衛(もりえ)(号は碌山〈ろくざん〉)。その生誕140周年に当たる今年、彼の芸術を考える展覧会が長野県などで開かれている。
荻原は長野県東穂高村(現・安曇野市)生まれ。仏のアカデミー・ジュリアンなどで学ぶかたわら、近代彫刻の祖といわれるオーギュスト・ロダンに私淑。帰国後、東京・新宿にアトリエを構えた。
故郷・安曇野市にある碌山美術館で開催中の「傑作《女》を見る展」(29日まで)は、亡くなる約1カ月前に石膏(せっこう)原型が完成し、その原型が近代彫刻としては初めて重要文化財に指定された絶作「女」(1910年)が制作された背景や作品の魅力の秘密を、書簡や像の研究から浮かび上がらせる。
束縛から逃れようとするかのようにも見える「女」の心象的なモデルとなったのが、当時、荻原らが集う芸術などのサロンを主宰していた新宿中村屋の女主人・相馬黒光だったことや、石膏の地山(土台)に幾重にも残る線などから荻原が像の高さを決めあぐねていたことがわかるなど興味深い。会期中無休。
一方、その新宿中村屋が運営している中村屋サロン美術館(東京都新宿区)では、やはり生誕140周年を記念した「荻原守衛展 彫刻家への道」が14日から開かれる(12月8日まで)。こちらはロダンをはじめ、サロンの一員だった画家・柳敬助の作品なども展示。サロンの中心人物だった荻原の人と作品に迫ろうとする。10月22日と29日を除く火曜休み。(編集委員・宮代栄一)
それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
己は己だ この己だ 己は自由を喜び 己は常に歩いてゐる 己は己の通りな芸術を作るのが何よりの願ひだ
詩「或問」より 大正元年(1912) 光太郎30歳
この詩の2年前に急逝した盟友・碌山も同じようなことを考えていたのではないでしょうか。