10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。
さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。
同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。
なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。
この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。
光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。
さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。
宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。
おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。
おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。
その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。
仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。
最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。
旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。
さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。
同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。
この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。
光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。
さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。
宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。
おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。
おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。
その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。
仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。
最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
他に、常設展示の方でも書がたくさん。
光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。
書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。
【折々のことば・光太郎】
光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。
書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。
【折々のことば・光太郎】
昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳
旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。