昭和23年(1948)に結成され、光太郎が名付け親となった「花巻賢治子供の会」という児童劇団がありました。主に宮沢賢治の童話を劇化、第一回の公演は光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の山小屋前で行われ、その後しばらく、春には旧太田村、秋には花巻町中心街での公演というスパンで続きました。光太郎が花巻を離れた後も活動は続き、平成9年(1997)までに公演回数は160回を超えたそうです。

その「花巻賢治子供の会」で実際に光太郎の前で演技をなさった当時のお子さん、お母さまが「花巻賢治子供の会」のメンバーだった宮沢和樹氏(賢治実弟・清六令孫)、そして当方でのトークショーです。

令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : なはんプラザCOMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号 
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた花巻賢治子供の会の会員より当時の活動の思い出をうかがい、光太郎の想いや賢治とのかかわりを学びます。

講 師 : 宮沢和樹  株式会社林風舎代表取締役
      熊谷 光  花巻賢治子供の会元会員
      高橋則子  花巻賢治子供の会元会員
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
司 会 : 田中しのぶ 花巻賢治子供の会元会員
チラシ表
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「花巻賢治子供の会」。主宰していたのは、花巻農学校での賢治の教え子の故・照井謹二郎氏と奥様の登久子氏。お二人とも小学校教諭、退職後は花巻で幼稚園経営をなさっていました。戦前から近所の子供達を集め、賢治の詩や童話の読み聞かせ、朗読の指導などを行っていました。戦後になり、戦争は終わったにも関わらず、戦争ごっこを続けている子供達の姿に愕然とし「これではいけない」と活動を再開したとのこと。

その頃、賢治実弟・清六の妻、愛子に「一緒に光太郎先生の山小屋に行こう」と誘われた登久子氏(戦時中から光太郎と面識はありました)、「何の手土産も用意できないから……」といったんは断ったものの、子供達の演劇を披露して娯楽の少ない山村暮らしの光太郎を慰問しようと思い立ったとのこと。そして昭和22年(1947)の6月に、旧太田村の光太郎の山小屋前で第一回公演を打ちました。

以後、記録に残る限り、太田村と花巻町中心街で光太郎は7回公演を観ています。光太郎が観た演目で把握できている賢治作品は「雪渡り」「カイロ団長」「どんぐりと山猫」「雁の童子」「風の又三郎」「狼森と笊森、盗森」「かしわ林の夜」。他にオリジナルの劇もあったようです。元々若い頃から芝居好きだった光太郎でしたし、特に戦後、青少年の健全育成には協力を惜しまなかったところもあり、公演の観覧を楽しみにしていました。

子供達の素朴で、しかし生き生きと演じる姿に好感を感じていたらしく、公演回数を重ねだんだん手応えを感じてきた登久子氏が「東京に出て本格的に演出などを学びたい」ともらすと、「そんなことをして変な児童劇臭さがついたらどうするのか。今のままが一番良い」とたしなめたそうです。

賢治童話の劇化ということで、賢治実弟の清六・愛子夫妻もサポート。お二人の令嬢で今年亡くなられた潤子さんも団員の一人として舞台に立たれていました。そこで潤子さん令息の和樹氏にもお話を伺います。

そして、実際に光太郎の前で演じられたお二人。貴重なお話が聴けることと存じます。
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画像の左下に写っている熊谷光さんと高橋則子さんのお二人です。ちなみに光太郎が二列めの右から3番目にいますが、その左後ろが清六、最後列には潤子さんもいらっしゃるようです。昭和27年(1952)、光太郎最後の観覧の際の集合写真です。
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登久子氏は昭和25年(1950)に脚本集『どんぐりと山猫』を十字屋書店から出版。光太郎にも触れられていますし、光太郎はこれを贈られて絶賛しました。

また、照井夫妻の近所に住んでいた菊池捍(まもる)の息女で、光太郎にピアノ演奏を聴かせてあげた聡子氏も音楽方面でサポートしていたこともわかりました。

そんなこんなでの1時間半。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京の連中はどうしてゐるかと時々おもひます、みな生活が中々困難だらうと思ひます、勢ひいろんなアルバイトをやらねばならないでせう。此間ラジオの娯楽番組の中へ草野心平が出てきて、唄をうたつたので面白かつたのですが、これもアルバイトの一つでせう。


昭和25年(1950)1月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

当会の祖・心平。「何やってんだ」という感じですが(笑)。