一昨日、昨日と、10月13日(日)・14日(月)にお邪魔した智恵子の故郷・福島二本松のレポートを書きましたが、これから書く内容が10月12日(土)の件ですので、時系列的には古い話です。ネタに困る時期には1件ずつ細かくレポートいたしますが、紹介すべき事項が山積しつつあり、申し訳ありませんが、一気に。関係の方々、ご寛恕の程。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さんの特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」を拝観。
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茶道・江戸千家家元の川上宗雪氏がご自身のコレクションを同館に寄贈なさり、そのお披露目です。

明治20年代から昭和50年代までの、森鷗外を含む100名弱の著名人が書いたはがき111通。差出人も宛先も様々です。おそらく、古書市場に出たものが中心なのでしょう。
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我らが光太郎のはがきも一通。事前のプレスリリース等で、光太郎のそれについては詳しく紹介されて居らず、宛先、発信年月日等、実際に拝見するまで不明でした。

で、結局、滋賀県在住の野田守雄というアマチュア歌人に送った大正7年(1918)12月25日付の葉書で、『高村光太郎全集』既収のものでした。『全集』等未収録の新発見の可能性もあるなと思って見に行ったのですが、その意味では残念でした。しかしやはり直筆の実物を拝見できたので、それはそれで良かったと思いました。

ちなみに文面は以下の通り。

 あなたが待たれて居られるだらうとおもつていつも済まない気がして居りながら色々の都合で遅れてゐて心苦しくおもひますがどうか今少し待つて下さい 此間のお葉書で御希望が拝察出来ました故小さいけれども人物の全体の習作をお送りするにきめました
 仕事が重なつてゐる為め毎日追はれてゐます 鋳金が間に合はないで閉口です今日はクリスマスですね


これだけだといったい何のことかよくわかりませんが、野田は光太郎のファンで、光太郎が興した絵画の頒布会、彫刻の頒布会に申し込み、作品を購入していました。この葉書はブロンズ彫刻「裸婦坐像」購入に関わります。

野田宛書簡は散逸していて、抜けもあるかとは思われますが、この前後の書簡がかなり把握できており、作家から愛好者へと作品が渡る過程の記録として貴重です。平成25年(2013)に千葉市立美術館さんを皮切りに巡回した「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」の図録には、同館学芸員の藁科英也氏が「この一連の書簡、面白いですね」と、収録なさいました。

ちなみに展示されているはがきに先立つ12月11日には「こんな作品ですよ」ということで、光太郎による粗いスケッチが附されています。
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光太郎以外にも、上記出品目録の通り、ビッグネームがずらり。「この人はこんな字を書くんだ」「この二人がこうつながっていたのか」などと、興味深く拝見しました。ただ、111通の全てを細かくは見ていられない、という感じでして、2期ぐらいに分けての開催でも良かったんじゃないか、とも思いました。

図録(1,600円)と、無料配付の『記念館NEWS』をゲット。
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図録の方は後で細かく拝読いたします。多忙につき読めていません。

さて、千駄木を後に、続いて浅草へ。浅草寺さんにほど近いギャラリー兼イベントスペースのブレーメンハウスさんでのイベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」への参加が目的。

若干早く着いてしまいまして、浅草寺さんを参拝しました。土曜ということもあって、人山の黒だかりでした。7割方は海外からのインバウンドと思われました。
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ご存じ雷門。このはす向かい当たりに、光太郎が1日に5回も通ったというカフェ「よか楼」があったのですが、今は跡形もありません。

雷門の後側には、光太郎の父・光雲弟子筋の一人・平櫛田中と、菅原安男による天龍像、金龍像。
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本堂右手前の手水舎には、光雲の沙竭羅竜王像。
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久しぶりに拝見しましたが、やっぱりいいな、と思いました。様式美の部分では光太郎もかないません。

さて、ブレーメンハウスさん。
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一階はギャラリーです。
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その名の通り「ブレーメンの音楽隊」をモチーフにしたステンドグラス。築60年ほどの建物だそうでしたが、ステンドグラスは古いものなのか、現代のものなのか判別がつきませんでした。
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二階は和室になっていて、イベントスペースに使っているそうです。こちらには懐かしい型板ガラス。こちらは60年ほど前のものでしょう。レトロ建築好きにはたまりません(笑)。
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左は紅葉、右は富士山。これで幼い頃暮らしていた官舎に使われていた銀河があったら涙が出るところでした(笑)。

「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」開幕。連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏の主催で、お仲間の方々がご参集。一人8分の持ち時間で、自作詩や好きな詩などを朗読したり解説したり。
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当方にも光太郎について語れ、という指示でして、語りました。彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎が、なぜ詩を書き続けたのかというあたりをメインとしました。欧米留学前、当時の流行に乗って喜んで作っていたストーリー性あふれる彫刻の愚劣さにあとになって気づき、彫刻に物語や主義主張は不要、そういう心の内面は詩で表現しようと考えた、という感じで。ストーリー性あふれる彫刻の例としては、左下画像の「薄命児」(明治38年=1905)を紹介しました。浅草花やしきで興行を打っていたサーカス団の幼い兄妹がモデルです。
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従って光太郎にとっての詩は、自己内面のストレートな表出、球速100マイル・フォーシームのど直球、きらびやかな美辞麗句に彩られたものでは決してない、などとも。そんな姿勢が良く表された、来月開催される「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品予定で額装しておいた光太郎のはがき(右上)も持参、皆さんに見ていただきました。

正富汪洋主宰の新進詩人社のアンケート「詩界について」に回答するためのはがきで「詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。」と認(したた)められています。

それから、詩も一篇朗読せよとの指令でしたので、光太郎の目指した詩の姿、的な詩「その詩」(昭和3年=1928)を読みました。はがきにしても「その詩」にしても、ご参集の詩人の皆さんへのメッセージでもあるという仕掛け(というほでもありませんが(笑))でした。

まことに申し訳なかったのですが、こちらのイベントは途中で退席させていただきました。新宿で上演される「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」観覧のためです。上京するとできるだけ複数の用件をこなすのが常でして。

というわけで、新宿へ。
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野田秀樹氏の脚本で、平成14年(2002)、大竹しのぶさんの一人芝居として初演されたものです。今回は「虎に翼」にも出演されていた文学座ご所属の平体まひろさんによる一人芝居。
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当方、野田氏の脚本は読みましたが、演劇としては初見でした。大竹さんの初演をテレビ放映で拝見したことはあったのですが。

開演前の会場内。
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中央で平体さんが智恵子を演じられ、観客は両サイドに設けられた客席で観おろすという配置でした。ここで平体さん、90分超をお一人でまさに熱演。素晴らしい。

数ある「智恵子抄」二次創作の中で、光太郎ディスり度が最も高い作品です。吉本隆明曰く「高村の一人角力(ずもう)としかおもえない」、伊藤信吉曰く「強いられたものの堆積」という、光太郎からの一種のモラハラによって徐々に壊れていく智恵子の姿が痛ましいまでに表されました。野田氏の脚本ですでにそうなっているのですが、劇中、智恵子の故郷の福島弁が効果的に使われ、光太郎は「こうたろう」ではなく、「コウダロウ」。「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」と常に要求を突きつけていた光太郎の姿が暗示されています。

そして智恵子も「ちえこ」ではなく、やはりなまって「ツエエ子」。智恵子が自分自身、「強え子」でありつづけたいと思っていた反映にもなっています。今回、改めて感じたのは、光太郎のモラハラの強烈さよりも、「自縄自縛」に陥ってしまった智恵子へのやるせなさでした。元は光太郎の「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」でも、智恵子はそれに抗わず、「その通り」と思い込み、逃げることもせず、そうなれない自分をどんどん追い込んでいく……というわけで。

「いや、そこ、違うだろ、逃げろよ」と言いたくなる場面が多々。しかし、その「逃げる」が出来なかったのが智恵子の悲劇だったんだなぁと、改めて思いました。まるで現代のDV被害者などが、加害者からのマインドコントロールに支配されてしまうような……。

ただ、それだけでなく、光太郎と出会う前から、智恵子にはそういう「強え子」を目指して「自縄自縛」に陥る性向があったという描き方になっています。その通りなのでしょう。

光太郎自身、智恵子が病んでから自分の過ちに気づきます。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に曰く「私との此の生活では外に往く道はなかつた」。それを踏まえての『智恵子抄』出版です。決して亡き妻との思い出を語ったノーテンキな「純愛の詩集」ではないのです。そのあたり、少し前に書きましたのでご覧下さい。

そんなわけで、光太郎は昭和25年(1950)に上梓した『智恵子抄その後』の「あとがき」には「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と書きました。本当に、「智恵子抄」の読みは一筋縄ではいきません。

そうした点を踏まえた上で、平体さんの再演なり、他の劇団や個人方による上演なりが続くことを祈念いたします。

以上、長くなりましたが都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

お抹茶と甘味とありがたく、これは元旦に若水を汲みましてまづ朝の一杯を心爽やかにいただき、それから村人からもらつた餅でお雑煮をいはひました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

昭和25年(1950)となり、花巻郊外旧太田村の生活も数え6年目となりました。