昨日は上京しておりまして、千駄木浅草新宿と三ヶ所を廻っておりました。レポートしなくてはならないのですが、今日もこれから二本松でして、ゆっくり書いている暇がありません。後に回します。

そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。

三山春秋

▼彫刻家で詩人の高村光太郎は晩年、岩手・花巻に暮らした。空襲で東京のアトリエを焼け出され、宮沢賢治の実家を頼って疎開した。山小屋での1人暮らしはおよそ7年に及んだ▼畑に育つもの、山に生えるものを食べる自給自足の生活。キノコは図鑑と見比べ、「食」と書いてあるものは何でも食べてみた。小屋は栗林の真ん中にあり、採りきれないほどたくさん実がなった。栗飯を炊いたり、ゆでたり、いろりで焼き栗にしたりして毎日味わった▼時には村の人たちがかごを持って栗拾いにやって来た。山の奥へ奥へと入っていき、クマの気配に驚いて逃げ帰った人もいたという。クマもまた冬眠に備え、秋の味覚を満喫していたのである▼近年は山奥だけでなく、人里や、地域によっては市街地でも出くわすことがある。この秋も注意が必要だと県が呼びかけている。主食となるドングリや栗などの実りが悪いらしく、山に餌がなければ人里に出てくる危険が高まる▼廃棄の農作物を放置しない。果樹は早めに収穫し、収穫しない木は切る。隠れ場所となるやぶを刈り払うなど、人里に引き寄せないことが重要だという。対策を万全にして、すみ分けを目指したい▼暑さが去ってようやく秋の味覚の出番になったが、山中と同様にわが家の栗も今年は不作である。「9月末になるとほとんど栗責め」だったという光太郎がちょっとうらやましい。

秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。

光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。

しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。
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花巻市では、市街地でもクマの出没情報が多数出ています。当方も昨年だったと記憶していますが、夕方、市街地でレンタカー運転中、河原に黒い塊が見え、「ありゃクマなんじゃないか?」でした。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。

ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
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サンドー式体操(ボディビル)で肉体を鍛え、ニューヨークではレスリングだかボクシングだかの経験者だった同級生をねじ伏せた、身長180センチ超の光太郎でしたが、残念ながら「素手でクマを倒した」という事実は確認できていません。

上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。

それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。


昭和24年(1949)12月17日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎67歳

「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。

次のようなやりとりがあったようです。

新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」

そして伊藤に打診、すると伊藤からは、作品選択(戦時中の翼賛詩も含める)や解説で「批判的」な態度を取るやもしれませんがそれでもいいのなら、的な返答が来たようで、さらにそれへの返信です。

批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。