小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。
ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。
さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。
短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。
他の三首は以下の通り。
いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする
書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。
この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。
その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。
もう一点、短冊も出ていました。
やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。
欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。
他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。
ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば
これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。
圧巻は以下の二首。
顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。
ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき
この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。
おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。
当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。
京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙。
中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。
そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。
オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。
ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。
さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。
短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。
他の三首は以下の通り。
いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする
書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。
この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。
その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。
もう一点、短冊も出ていました。
やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。
欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。
他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。
ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば
これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。
圧巻は以下の二首。
顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。
ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき
この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。
おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。
当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。
京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙。
中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。
そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。
オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。
色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。
若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。
光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。
智恵子はすでに元素にかへった。
中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。
色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。
若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。
光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。
亡き人に
雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる
今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ
私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだゐる其処そこにゐる
あなたは万物となつて私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
元素智恵子
智恵子はすでに元素にかへった。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ、
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
智恵子はただ嬉々としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。
光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。
ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。
閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、
澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。
結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。
光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。
ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。
閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。
【折々のことば・光太郎】
お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、
昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳
澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。
結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。