岩波書店さんで出しているPR誌的な月刊の『図書』。今月号で光太郎智恵子が論じられています。
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「論じる」というよりはエッセイのような感じですが、映画監督の中村佑子氏による連載「女が狂うとき」の第4回で「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」。

乙女」は「乙女の像」の「乙女」。青森県の十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」(昭和28年=1953)です。

光太郎、この像の身体部分は藤井照子というプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデルを雇ってデッサンを重ねましたが、その顔はまぎれもなく、智恵子。ただし光太郎自身は公的には智恵子の顔だとは発言していません。それでも生前の智恵子を知る人々は一様にそう思いました。戦後のかなり早い段階から光太郎が「智恵子観音を作りたい」と言っていたのを知る人々も多かったようですし。
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冷たい」は中村氏が十和田湖畔を訪れたのが真冬で、「私はこの像を、ある人に寒いねと抱きしめられた肩越しに見た。こんな場所で裸をさらして、なんて寒そうなのか」というところから。また、象徴的な意味合いでも「冷たい」の語を選択し、冠したのだと思われます。すなわち、光太郎智恵子の関係性などなど。

吉本隆明が「高村の一人角力(ずもう)としかおもえないのである」(『高村光太郎』昭和32年=1957)と断じ、それを受けて黒澤亜里子氏がジェンダー的な視点を持ち込んで『女の首 逆光の「智恵子抄」』などで論じ、さらに多くの追随者で一時期賑わった、『智恵子抄』における生身の智恵子の不在、的なイメージです。

曰く

「自分の成長があなたのためにもなる……光太郎は智恵子と対等だと言いながら、庇護者のような気でいたのだろうか。家父長制が色濃く残る時代にあって、芸術家として歴然と地位も評価もあった光太郎が、智恵子の創作の力や情熱を吸い取っていったのではないのか。」

「東京に空がないのではなく、光太郎との生活に空がなかったのである。」

「理念と現実との深い落差に、幾重にも智恵子は追い詰められただろう。」


などなど。

先述の吉本隆明や黒澤亜里子氏やその他の人々によって同様の論は展開され続けてきたので、新しい知見というわけではありませんが、先行の論も今やほとんど絶版となっている今日、改めてこういうことを論じるのも、それはそれで意義のあることだと思われます。

ただし、光太郎はこういった批判を百も承知で居たのではないかというのが当方の見解です。ところが、それに気づいたのは智恵子の心の病が顕在化してから、さらには智恵子が歿してからではないか、とも思えますが。

それでもあえて『智恵子抄』出版に踏み切ったところに、『智恵子抄』の持つ重層性、多相性が見て取れます。

『智恵子抄』は、浅い読み方で読めば、「純愛の詩集」にしか過ぎません。そこで止まって肯定的に捉えれば「素晴らしい! 我が国相聞歌の金字塔だ」。否定的に読めば「高村の一人角力(ずもう)」。しかし、それに留まらず、もっともっと深い読み方が出来るはずです。

例えば「贖罪の詩集」。「済まなかった、智恵子よ」というわけで。戦後の連作詩「暗愚小伝」にも通じる、自らの「暗愚」の暴露と反省の表明とも読めます。

「訣別の詩集」とも読めましょう。昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』収録詩篇のうち、最後に書かれたのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」。おそらく『智恵子抄』のための書き下ろしです。それ以前に智恵子没後のことを題材にした「梅酒」や「亡き人に」が作られていたにも関わらず、時間を逆行してあえて葬儀の日の模様を謳いあげました。

光太郎としては「一心同体」のつもりでいた智恵子が歿したことで、同時にそれまでの自分も一度死んだという気になったのではないでしょうか。しかし再生するのです、全く違う面貌で。

「荒涼たる帰宅」執筆後、すなわち『智恵子抄』刊行後、光太郎は詩の中で智恵子を扱うことを一時やめます。それから終戦までは、身辺雑記的なものを除き、殆ど戦意高揚のための翼賛詩一辺倒となります。ここには「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省から、真逆の積極的に社会と関わろうという方向性への転換が見て取れます。そうしないと自分もおかしくなる、と考えたのかも知れません。

そこで、愛する者の死を謳うことで、同時にそれまでの自分への「訣別」を宣言するための『智恵子抄』。やはり戦後の「暗愚小伝」に通じますね。

それから「抄」一字に込められた思い。以前にも書きましたが、これは「全著作の中から智恵子に関するものの抄出」という表面的な意味以外に、「ここに表されている智恵子が智恵子の全てではないよ」という意味も込められているような気がします。「生身の智恵子はもっともっといろいろな悩みを抱え、必死に生きようとしていた素晴らしい女性だった。愚かだった自分は偏った見方で一部分しか見なかった。だから「抄」だ」と。

それでも光太郎は、「亡き人に」の中で「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど/あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と謳いました。「一切」には上記のもろもろが含まれるのではないでしょうか。何やかやと言っても、智恵子との日々はかげがえのないものでもあったわけで……。

そういう部分を考えると「鎮魂の詩集」という意味合いも感じられます。西洋音楽のレクイエムのような……。

というわけで、『智恵子抄』。決して単なる「純愛の詩集」ではありません。それに疑義を挟む批判的な読み方もけっこうですし、さらに突っ込んだ解釈が今後とも成され続けることを期待します。

ただし、史実と異なることを書かれるのは困ります。今回も、「智恵子が光太郎のブロンズ作品を袂に入れて散歩」「「乙女の像」は光太郎最後の彫刻」といった誤りが散見されて、残念でした。

そうした点は差っ引いても一読の価値がありますので、『図書』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学芸会では小生サンタクロースのお爺さんに扮して舞台に出ました。部落の子供達はとても可愛いいです。


昭和24年(1949)12月6日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎67歳
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戦前には「芸術家あるある」で関係を極力絶とうとし、戦時中には戦意高揚の詩文で鼓舞し、と、いびつな形でしか社会との関わりを持ててこなかった光太郎、ようやく戦後になって自然な形での交わりが出来るようになったと言えましょう。

それにしても、この写真に写っていて、永らく光太郎の語り部を務められた高橋征一氏浅沼隆氏も今はもう虹の橋を渡られてしまったんだなぁ、と、改めて寂しい思いです。