昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。
毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。
明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。
一部、骨子をご紹介します。
まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。
他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。
続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。
「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。
さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。
そして、浅草雷門の「よか楼」。
欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。
そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。
「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。
明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。
一部、骨子をご紹介します。
まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。
八重次の首はへちまにて
小雛の唄は風鈴にて
さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
小雛の唄は風鈴にて
さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。
続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。
「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。
さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。
そして、浅草雷門の「よか楼」。
欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。
そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。
「わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ」
「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「食後の酒」 明治44年=1911)
「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)
「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)
「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
「雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「あをい雨」明治45年=1912)
「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)
「雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)
「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。
又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。
文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。
そしてこんな記述も。
ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。
注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。
光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、
「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。
とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。
この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。
なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。
隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。
明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。
お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。
お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」や「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。
まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。
こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。
立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。
ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。
ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。
この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。
なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。
隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。
お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。
お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」や「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。
まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。
お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)
お梅も可哀想な女性だったと思います。
ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。
追記 光太郎実弟・豊周著『光太郎回想』(昭和37年=1962 有信堂)にお梅の写真が載っていました。
【折々のことば・光太郎】
又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
お梅も可哀想な女性だったと思います。
ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。
追記 光太郎実弟・豊周著『光太郎回想』(昭和37年=1962 有信堂)にお梅の写真が載っていました。

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳
こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。
立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。
ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。
ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。













