当会発行の冊子『光太郎資料』62集、完成しました。関係各所には先週末に発送いたしまして、そろそろお手元に届いていることかと存じます。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな「資料」を紹介する目的で不定期に発行されていたものです。その名跡をお譲りいただき、現在は4月2日の連翹忌と10月5日のレモンの日に合わせ(その差がほぼ半年ですので)年2回の刊行としております。

「刊行」と言っても印刷のみ地元の印刷やさんにお願いし、丁合、ホチキス留めは手作業。手作りの冊子です。

今号の内容は以下の通り。

・「光太郎遺珠」から 装幀・題字
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今回は光太郎が手がけた装幀と書籍題字など。

『高村光太郎全集』別巻に光太郎が手がけた装幀と書籍題字のリストが掲載されていますが、やはりもれがありまして、その辺を画像入りで。

いくつか例を。
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左が昭和5年11月25日発行、竹内てるよ著「曙の手紙」表紙。光太郎は昭和7年(1932)刊行の『第二曙の手紙』など、他にも複数の竹内著書の題字揮毫を手がけていますが、それらのうち最も古いものでした。

中央は昭和13年(1938)11月28日、東京農業大学農友会文芸部発行の部誌『土』。昭和16年1(1941)1月25日発行第31号の筆跡の異なる題字は知られていましたが、それ以前の号でも光太郎が筆を揮っていました。「土」一文字、単純な字だけに難しいと思うのですが、味のある字ですし、何よりバランスが絶妙だと思います。

右は大正15年(1926)7月25日発行の雑誌『デツサン』第三輯。題字は光太郎の筆跡とは異なるものですが、絵は光太郎で「光 1916」のサインが入っています。古いデッサンを編集者が懇願して使わせて貰ったそうです。

光太郎回想・訪問記 都会情景 カフエー譚
同時代の人々による光太郎回想等のうち、光太郎研究書等で紹介されていないものを取り上げています。今号は大正3年(1914)1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号に載った「都会情景 カフエー譚」。「木像生」の署名がありますが執筆者の詳細は不明です。

光太郎の名は2回程しか出て来ないのですが、明治末から大正初めにかけての東京のカフェ事情が詳しく記されています。このうち、光太郎も足繁く通い、詩文にその名が登場する「よか楼」「ライオン」「プランタン」「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」等についての部分。

これについては、調べていくうちにちょっとした発見がありまして、明日また詳しくご紹介します。

・光雲談話筆記集成 『書道』より
光太郎の父・光雲の談話筆記はさまざまな雑誌等に載ったのですが、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』以外にはまとめられていません。今号では昭和7年(1932)、泰東書道院出版部発行の雑誌『書道』に掲載された「大圓寺感話集」「鶴」の2篇を収めました。いずれも彫刻制作に関する内容です。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 犬吠埼その二
前号に続き、大正元年(1912)に光太郎智恵子が滞在し、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼関連。手持ちの古絵葉書画像と共に、二人の泊まった宿、二人が歩いた場所などをご紹介しました。
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・音楽・レコードに見る光太郎 清水脩作品
光太郎生前の昭和30年(1955)に一部が作曲、初演された「歌曲集 智恵子抄」をはじめ、清水脩作曲の光太郎詩に曲を付けたりしたさまざまな音楽の紹介です。

・高村光太郎初出索引
さまざまな光太郎文筆作品等を索引にしていますが、昭和5年(1930)、6年(1931)に初出のあったものを掲載誌順にご紹介しています。

・第六十八回連翹忌報告
今年4月2日(火)の日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いの記録です。

ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

盛岡では寸暇もなく引つぱりまはされて弱りましたが、小生の昔作つた大倉喜八郎の小さな首の彫刻を再入手する事が出来てよかつたと思ひました。盛岡の彫刻家が預かつてゐてくれたのでした。


昭和24年(1949)11月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

日記が失われていて詳細不明ですが、11月17日から一週間程、盛岡に滞在。県立美術工芸学校、盛岡公会堂で講演などを行いました。

経緯は不明ですが、工芸学校で教鞭を執っていた堀江赳がテラコッタ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)を保管していて、光太郎の手元に戻りました。