9月25日(水)、宿泊した花巻南温泉峡・大沢温泉さんを後に、レンタカーを駆って奥羽国境山脈を越え、秋田県に向かいました。目指すは仙北郡美郷町。なまはげやかまくらで有名な横手市の北に位置します。
花巻からは高速を乗り継いで概ね2時間程。こちらに「高村光雲作の銅像がある」という情報を得ておりまして、機会があれば、としばらく前から思っておりました。
像が作られた人物は坂本東嶽(文久元年=1861~大正6年=1917)。美郷の出身で本名は理一郎。秋田県議会、さらに衆議院と貴族院の議員を歴任した人物です。かの犬養毅とは慶應義塾の同窓で、莫逆の友だったとのこと。
昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍があり、それによると像の原型作者が光雲となっています。
ただ、それ以外のネット上の情報等はあいまいで、よくわかりませんでした。これはもう見に行った方が早い、と思った次第です。
現場は一丈木公園というところ。小高い丘の上に広がっていました。
ここの一角に、目指す像。
見た瞬間に「あまりよろしくないな」。像の出来不出来という部分ではなく、光雲のテイストが殆ど感じられない、という感覚の問題です。
その違和感、台座裏側の碑陰記的な銘板を読み、納得しました。この手の像の例外に洩れず、大正年間に作られたオリジナルは戦時中に金属供出され、現在のものは戦後にまったく別の人物によって作られたものだとのこと。ポージング等はオリジナルを元にしているようですが。
さらにオリジナルも原型作者は光雲ではなく、佐藤泰山という人物。光雲は「製作監督」として名を連ねているだけでした。『偉人の俤』の記載が半分ガセだったわけで。ただ、「おっ」と思ったのは、光雲三男(光太郎実弟)の豊周も「製作監督」だったこと。鋳造に関しては豊周が多少なりとも関わったということでしょう。
そういう意味では残念でしたが、長い間のモヤモヤがすっきりしたという部分では良かったと思いました。
像のある一丈木公園の近くに、その坂本東嶽の屋敷が保存公開されています。せっかくですのでそちらにも。
もともと古建築好きの当方ですし、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存に向けて一枚噛ませていただいておりますので、こちらは興味深く拝見いたしました。
まず母屋。玄関の唐破風が実に豪勢です。
内部。
母屋の裏手に位置する内蔵(うちぐら)。
件(くだん)の東嶽像とは別のミニチュアというか、邸宅用というか。服装が異なります。こちらはおそらく戦前のもののようでした。一丈木公園での像の除幕の様子。
蔵の二階。
梁(はり)が見事でした。
内蔵と套屋の間の通路には、こんなものも。
東北六県の貴族院議員の集合写真ですが、「ありゃま」と思ったのが青森の佐々木嘉太郎。その名は昭和27年(1952)に、十和田湖の国立公園指定15周年で当時の知事・津島文治(太宰治実兄)が光太郎に「乙女の像」制作を依頼する際に出て来ます。光太郎盟友の佐藤春夫、建築家の谷口吉郎らとともに、光太郎をモニュメント作者として推挙した一人です。ただし、時期的に合いません。たぶんこっち(写真)が先代で、「乙女の像」にからんだのは息子か何か、代々「嘉太郎」を襲名していたんだろう、と思ったのですが、帰ってから調べたところ、ビンゴでした。
来客用の離れ。
庭園もいい感じでした。
像に関しては残念でしたが、東嶽邸の素晴らしい空間に身を置けたのは実によかったと思いました。
この後、また花巻に戻り、レンタカーを返却、帰途に就きました。
以上、東北レポートを終わります。また来月も2度ほど東北行きの予定が入っているのですが(笑)。
【折々のことば・光太郎】
五日の法要に老人のご参集にあづかり又たのしい御饗応をうけまして真にありがたい事と存じました。おかげで「ハムレツト」も見る事が出来、又菊池さんのピアノもきけて愉快でした。
「五日の法要」は、花巻町中心街の松庵寺さんで執り行った光雲/智恵子の法要。「老人」は清六、そして亡き賢治の父・政次郎/イチ夫妻。「ハムレツト」は映画でしょう。
「菊池さんのピアノ」云々(「でんでん」ではありません(笑))は、旧菊池家住宅西洋館でのことと思われます。ここで最初にピアノ演奏を聴いたのは、昭和21年(1946)と推定されますが、この時にも聴いていたのですね。
花巻からは高速を乗り継いで概ね2時間程。こちらに「高村光雲作の銅像がある」という情報を得ておりまして、機会があれば、としばらく前から思っておりました。
像が作られた人物は坂本東嶽(文久元年=1861~大正6年=1917)。美郷の出身で本名は理一郎。秋田県議会、さらに衆議院と貴族院の議員を歴任した人物です。かの犬養毅とは慶應義塾の同窓で、莫逆の友だったとのこと。
昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍があり、それによると像の原型作者が光雲となっています。
ただ、それ以外のネット上の情報等はあいまいで、よくわかりませんでした。これはもう見に行った方が早い、と思った次第です。
現場は一丈木公園というところ。小高い丘の上に広がっていました。
ここの一角に、目指す像。
見た瞬間に「あまりよろしくないな」。像の出来不出来という部分ではなく、光雲のテイストが殆ど感じられない、という感覚の問題です。
その違和感、台座裏側の碑陰記的な銘板を読み、納得しました。この手の像の例外に洩れず、大正年間に作られたオリジナルは戦時中に金属供出され、現在のものは戦後にまったく別の人物によって作られたものだとのこと。ポージング等はオリジナルを元にしているようですが。
さらにオリジナルも原型作者は光雲ではなく、佐藤泰山という人物。光雲は「製作監督」として名を連ねているだけでした。『偉人の俤』の記載が半分ガセだったわけで。ただ、「おっ」と思ったのは、光雲三男(光太郎実弟)の豊周も「製作監督」だったこと。鋳造に関しては豊周が多少なりとも関わったということでしょう。
そういう意味では残念でしたが、長い間のモヤモヤがすっきりしたという部分では良かったと思いました。
像のある一丈木公園の近くに、その坂本東嶽の屋敷が保存公開されています。せっかくですのでそちらにも。
もともと古建築好きの当方ですし、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存に向けて一枚噛ませていただいておりますので、こちらは興味深く拝見いたしました。
まず母屋。玄関の唐破風が実に豪勢です。
内部。
母屋の裏手に位置する内蔵(うちぐら)。
件(くだん)の東嶽像とは別のミニチュアというか、邸宅用というか。服装が異なります。こちらはおそらく戦前のもののようでした。一丈木公園での像の除幕の様子。
蔵の二階。
梁(はり)が見事でした。
内蔵と套屋の間の通路には、こんなものも。
東北六県の貴族院議員の集合写真ですが、「ありゃま」と思ったのが青森の佐々木嘉太郎。その名は昭和27年(1952)に、十和田湖の国立公園指定15周年で当時の知事・津島文治(太宰治実兄)が光太郎に「乙女の像」制作を依頼する際に出て来ます。光太郎盟友の佐藤春夫、建築家の谷口吉郎らとともに、光太郎をモニュメント作者として推挙した一人です。ただし、時期的に合いません。たぶんこっち(写真)が先代で、「乙女の像」にからんだのは息子か何か、代々「嘉太郎」を襲名していたんだろう、と思ったのですが、帰ってから調べたところ、ビンゴでした。
来客用の離れ。
庭園もいい感じでした。
像に関しては残念でしたが、東嶽邸の素晴らしい空間に身を置けたのは実によかったと思いました。
この後、また花巻に戻り、レンタカーを返却、帰途に就きました。
以上、東北レポートを終わります。また来月も2度ほど東北行きの予定が入っているのですが(笑)。
【折々のことば・光太郎】
五日の法要に老人のご参集にあづかり又たのしい御饗応をうけまして真にありがたい事と存じました。おかげで「ハムレツト」も見る事が出来、又菊池さんのピアノもきけて愉快でした。
昭和24年(1949)10月11日 宮沢清六宛書簡より 光太郎67歳
「五日の法要」は、花巻町中心街の松庵寺さんで執り行った光雲/智恵子の法要。「老人」は清六、そして亡き賢治の父・政次郎/イチ夫妻。「ハムレツト」は映画でしょう。
「菊池さんのピアノ」云々(「でんでん」ではありません(笑))は、旧菊池家住宅西洋館でのことと思われます。ここで最初にピアノ演奏を聴いたのは、昭和21年(1946)と推定されますが、この時にも聴いていたのですね。