神戸から日本画の個展情報です。
藤原定家の「明月記」を手掛かりに、古天文学をテーマにした展覧会。具体やボイス、高村光太郎と智恵子抄、隕石などを本歌取りや岡崎和郎を想起する見立て、日本画技法を用いて芸術学的宇宙図を形成。鑑賞より観測が相応しい。9/30まで
最初の画像、満月を描いているものでしょうが、よく見るとレモンの皮のようにも見えます。「レモン」とくれば「智恵子抄」中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。これが「智恵子抄」オマージュの作品なのでは? と思いました。違っていたらごめんなさいですが。
今年の中秋の名月は9月17日(火)でした。陰暦八月十五日の月、ということで、年によって前後します。以前にも書きましたが、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の中秋の名月は、駒込林町のアトリエ兼住居で智恵子葬儀が行われた10月8日でした。おそらく詩集『智恵子抄』のために書き下ろされ、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったようにも思えます。
閑話休題。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。
当方手持ちの書簡の一節です。おそらく熱中症でしょう。光太郎の山小屋は奥羽山脈の麓、光太郎自身が「水牢」と呼んだ非常に湿気の多いところで、そうなると気温がさほどでなくても熱中症の危険性が高まります。当方も一度、旧高村記念館内で作業中に眩暈(めまい)を起こしてぶっ倒れそうになりました。
期 日 : 2024年9月20日(金)~9月30日(月)
会 場 : Gallery301 神戸市中央区栄町通1丁目1‐9 東方ビル301
時 間 : 12:00~18:00 最終日のみ17:00まで
休 館 : 9月25日(水) 9月26日(木)
料 金 : 無料
公式の案内文等に光太郎智恵子の名がありませんが、X(旧ツイッター)上の、見に行かれた方のポストに、以下の記述がありました。 人は宇宙(そら)をどのような思いで眺めてきたのだろうか?
宇宙物理学など自然科学の1分野である天文学と考古学との境界領域にある古天文学。 前者は自然界の多様な現象を解明する研究、後者は人間の思想哲学を行為や記録(遺物)から読み解く研究である。 人間の知的好奇心や探求心によって、生まれてきた宇宙観や天文学は、民族や国家、時代の境界を越えて影響を与え、発展してきた。
たとえば、古代ギリシャの数学者ピタゴラス(紀元前582-紀元前496)は天体の運行が常に音を発しており、宇宙全体が大きなハーモニーを奏でていると考えていた。「天球の音楽」として知られるその思想は、哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347)をはじめ二千年後のドイツの天文学者ケプラー(1571-1630)にも影響を与えている。
自然(宇宙)と人間と芸術。広大な宇宙においては星の屑にも満たない様な人類の歴史やもっと些細な営み。それらを引き合わせて少しずつ手や頭を動かして継ぎ、展覧会を編む。 事物を通じて個々に現れる目には見えないもの、耳には聞こえない音楽を仮にここで詩(うた)と呼び、そのポリフォニーを傾聴しながら私も宇宙(そら)を眺めてみようと思う。
会期はちょうど仲秋の名月を経て新たな月へと向かう頃。是非会場へ観測にお越しください。
藤原定家の「明月記」を手掛かりに、古天文学をテーマにした展覧会。具体やボイス、高村光太郎と智恵子抄、隕石などを本歌取りや岡崎和郎を想起する見立て、日本画技法を用いて芸術学的宇宙図を形成。鑑賞より観測が相応しい。9/30まで
最初の画像、満月を描いているものでしょうが、よく見るとレモンの皮のようにも見えます。「レモン」とくれば「智恵子抄」中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。これが「智恵子抄」オマージュの作品なのでは? と思いました。違っていたらごめんなさいですが。
今年の中秋の名月は9月17日(火)でした。陰暦八月十五日の月、ということで、年によって前後します。以前にも書きましたが、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の中秋の名月は、駒込林町のアトリエ兼住居で智恵子葬儀が行われた10月8日でした。おそらく詩集『智恵子抄』のために書き下ろされ、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったようにも思えます。
閑話休題。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。
昭和24年(1949)9月2日 八森虎太郎宛書簡より 光太郎67歳
当方手持ちの書簡の一節です。おそらく熱中症でしょう。光太郎の山小屋は奥羽山脈の麓、光太郎自身が「水牢」と呼んだ非常に湿気の多いところで、そうなると気温がさほどでなくても熱中症の危険性が高まります。当方も一度、旧高村記念館内で作業中に眩暈(めまい)を起こしてぶっ倒れそうになりました。