光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。