都内で彫刻家の方の個展です。
期 日 : 2024年9月7日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : エンパシーギャラリー 渋谷区神宮前3丁目21-21 ARISTO原宿2階
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料
生命の息吹を宿す動物彫刻で知られる瀬戸優が、本展で新たな挑戦に挑みます。
テーマは「Time Traveler」。さまざまな時代に生きた動物たちを彫刻として再現し、時を越えて伝わるその存在感を感じていただける作品が並びます。
本展は、瀬戸優にとって今年最大規模の展覧会となり、34点の作品が出品されます。
ぜひ、この特別な機会にご来場ください。
今回の展示は、瀬戸優にとって初めての「オマージュ」に焦点を当てた試みです。耐久性の高い彫刻作品は、長い年月を経てもなお、私たちに語りかけてきます。古代エジプトの「アヌビス神像」(紀元前1500年)から、19世紀の「老猿」(1893年)まで、幅広い時代と地域の動物彫刻にインスパイアされた作品が展示されます。
前回の個展「星を数える」に続き、今回は「時間」に秘められたロマンを感じ取っていただければ幸いです。
瀬戸氏ご本人が Instagramのテキストアプリ「Threads」上に作品画像を公開されており、光太郎の父・光雲の「老猿」オマージュの作もアップされています。
「Threads」テキストによれば、光雲の「老猿」制作の背景もきちっと押さえた上で作られているそうです。「老猿」制作中に、光雲の数え十六歳だった長女の咲(さく)が肺炎で亡くなっています。咲は狩野派の絵師に学び、将来を嘱望される腕前でした。後の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)にそのあたりが語られています。
総領の娘を亡くした頃のはなし
栃の木で老猿を彫ったはなし
また、光太郎の回想「姉のことなど」(昭和16年=1941)にも。光太郎は数え十歳でした。
明治二十五年には姉さんも十六歳になつた。絵画の技倆は驚異的に上達して来た。いよいよこれからといふ其年の九月九日に此の姉さんが死んだ。
(略)
黙りかへつた家内中の人に囲まれて姉さんはいつものやうに臥てゐた。苦しさうであつたやうな気がしない。母が私の手を持ち添へて、枕元にある茶碗の水を細長い小さな紙に浸まして姉さんの少しあいてゐる口を塗らした事をおぼえてゐる。みんなが泣いてゐたやうだつたが私は泣いたやうに思はない。その時祖父さんがいきなり叱るやうな声で「親不孝め」と言つたので驚いた事が頭に残つてゐる。
(略)
八月末からは臥たきりであつたやうだ。或る夕方祖父が井戸端でつるべの水を頻に浴びてゐるのを見たので暑いからだと思つてゐたが、後年それは水垢離をとつてゐたのだときかされた。これもあとで聞くと、姉さんは裏隣にあつた総持寺といふ寺の不動尊にひそかに願をかけて、父の無事息災を祈り、父の災難の身代にさせてくれと願つてゐたのださうである。その年が丁度父の厄年にあたり、しかも美術学校で父が高いところから落ちた事があつたりした。其上、父はシカゴ大博覧会へ出品する大きな木彫の猿を作りかけて、これが中々はかどらないやうな状態の時であつた。
このあたりを受けて、瀬戸氏曰く「光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったという。このエピソードを知り、老猿の迫力の秘密がわかった気がした。我々作家にとって、作品制作だけが精神を安定させ、自身を幸福に導いてくれる」。
なるほど。
他にも動物系の具象作品が多いようですが、不思議な迫力に満ちた作品群です。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
油画の方でも梅原安井程度でゆきどまりではなりません。もつと大きくひらけて油画の大道に出ねばならぬと考へます。あれだけではひどく小さいです。
自らは蟄居生活を送りながらも、美術界に対する期待は大きかったのですね。
瀬戸氏ご本人が Instagramのテキストアプリ「Threads」上に作品画像を公開されており、光太郎の父・光雲の「老猿」オマージュの作もアップされています。
「Threads」テキストによれば、光雲の「老猿」制作の背景もきちっと押さえた上で作られているそうです。「老猿」制作中に、光雲の数え十六歳だった長女の咲(さく)が肺炎で亡くなっています。咲は狩野派の絵師に学び、将来を嘱望される腕前でした。後の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)にそのあたりが語られています。
総領の娘を亡くした頃のはなし
栃の木で老猿を彫ったはなし
また、光太郎の回想「姉のことなど」(昭和16年=1941)にも。光太郎は数え十歳でした。
明治二十五年には姉さんも十六歳になつた。絵画の技倆は驚異的に上達して来た。いよいよこれからといふ其年の九月九日に此の姉さんが死んだ。
(略)
黙りかへつた家内中の人に囲まれて姉さんはいつものやうに臥てゐた。苦しさうであつたやうな気がしない。母が私の手を持ち添へて、枕元にある茶碗の水を細長い小さな紙に浸まして姉さんの少しあいてゐる口を塗らした事をおぼえてゐる。みんなが泣いてゐたやうだつたが私は泣いたやうに思はない。その時祖父さんがいきなり叱るやうな声で「親不孝め」と言つたので驚いた事が頭に残つてゐる。
(略)
八月末からは臥たきりであつたやうだ。或る夕方祖父が井戸端でつるべの水を頻に浴びてゐるのを見たので暑いからだと思つてゐたが、後年それは水垢離をとつてゐたのだときかされた。これもあとで聞くと、姉さんは裏隣にあつた総持寺といふ寺の不動尊にひそかに願をかけて、父の無事息災を祈り、父の災難の身代にさせてくれと願つてゐたのださうである。その年が丁度父の厄年にあたり、しかも美術学校で父が高いところから落ちた事があつたりした。其上、父はシカゴ大博覧会へ出品する大きな木彫の猿を作りかけて、これが中々はかどらないやうな状態の時であつた。
このあたりを受けて、瀬戸氏曰く「光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったという。このエピソードを知り、老猿の迫力の秘密がわかった気がした。我々作家にとって、作品制作だけが精神を安定させ、自身を幸福に導いてくれる」。
なるほど。
他にも動物系の具象作品が多いようですが、不思議な迫力に満ちた作品群です。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
油画の方でも梅原安井程度でゆきどまりではなりません。もつと大きくひらけて油画の大道に出ねばならぬと考へます。あれだけではひどく小さいです。
昭和24年(1949)6月21日 椛沢ふみ子宛書簡より光太郎67歳
自らは蟄居生活を送りながらも、美術界に対する期待は大きかったのですね。