9月11日(水)、上野の東京藝術大学大学美術館さんで拝観した企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」レポート2回目です。

まず前室に展示されていた光太郎や光太郎の父・光雲らの作を堪能した後、いよいよメインの台湾人彫刻家・黄土水の作品が並ぶ奥の展示室へ。

中央にドーンと目玉作「甘露水」。
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大理石の白い石肌が何とも云えず艶やかです。ロダンの「接吻」を想起しました。大正11年(1922)に発表された作とのことですが、明治31年(1898)に大理石像が発表された(ブロンズはもっと前)「接吻」について黄が情報を得ていたかどうか、何とも云えませんが。

ただ、大理石であっても荒々しさの残るロダンとは異なり、とにかく優美な作です。そういう意味ではロダン以前のアカデミックなベルニーニあたりの影響の方が強いのかな、という感じでした。

像の足もとに配された貝など、いかにもバロック的です。
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それにしても、大理石という素材の特性をうまく生かしていると思わせる作品でした。

この時代、既に他の日本人彫刻家も大理石像を手がけており、手元にある「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)の図録などを見ると、複数の作家が大理石像を出品しています。しかし、あくまで写真を見てだけの感想ですが、「甘露水」には及ばないという感じです。中には「これを大理石で作る必要性があるの?」とか「明治の牙彫と変わらないじゃん」とかいう雰囲気のものも。作家名を挙げることは控えますが。ところでどちらにも黄の作品は出ていませんでした。

ちなみに光太郎も大正6年(1917)に大理石彫刻を手がけましたが、残念ながら作品の現存が確認できていません。

閑話休題、他の黄作品。
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ブロンズ系。つまり削って作るカービングではなく、粘土を積み重ねる塑像が原型でしょう。

ここから下は木彫です。
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カービングもモデリングも高いレベルで器用にこなしていたんだな、と思いました。それだけに「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)などに出品していないのが不思議でした。帝展等には入選歴があるのですが。
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帰りがけ、受付で簡易図録(500円)をゲット。
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全24ページの薄いもので光太郎・光雲らの出展作は網羅されていませんが、メインの黄作品は全て掲載されています。

館を出ると、コロナ禍の頃は学外の人間は立ち入り禁止だったエリアにも入れるようになっているのに気づきました。となると、ご挨拶せねば。

光太郎作の「光雲一周忌記念胸像」。
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光太郎以外によるこの手の大学功労者の像が複数並んでいますが、これが出色の出来、と思うのは贔屓しすぎでしょうか(笑)。

さて、「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展、10月20日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。併せてすぐ近くの東京国立博物館さんの常設展「近代の美術」も。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家聯盟の展覧会がありました由いい彫刻家がせめて四五人出てくれるやうにと祈つてゐます。貴下も御精励をねがひます。世界の彫刻を日本がひきうけねばなりません。

昭和24年(1949)6月17日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

戦争の傷跡からも立ち直りつつあり、光太郎の期待通りいい彫刻家が出て来ます。佐藤忠良、舟越保武、柳原義達、本郷新、木内克、菊池一雄などなど。ある意味、光太郎のDNAを継ぐ者たちです。

昭和5年(1930)に満35歳で亡くなった黄なども、戦後まで生きながらえていれば……と思われますが。