上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。昨日、拝見に行って参りました。
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展示会場は3階の2室を使い、奥がメインの展示・台湾から東京美術学校に留学していた黄土水の作品群。
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手前が前座的に黄が師事した光雲や同時代ということで光太郎などの作品群でした。まずはそちらから。

いきなり最初に光雲作品が出迎えてくれます。
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作品というより、学生たちに示すための教材ですね。ラベルにも「標本」とあります。文殊菩薩像を木寄せで作る際の、いわば3D設計図のような。

同様の用途でしょう、観音像の頭部のみ。
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「聖徳太子像」は「作品」として制作されたと思われますが、ことによるとこうしたものも学生たちに手本として示されたかもしれません。
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太子、イケメンです(笑)。

さらに光雲の作が続きます。
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「鷹」。羽根の先端や俵を縛る縄など、細部まで作り込まれています。
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「蘭陵王」。以前に見た時はアタッチメントの面を装着した状態でしたが、今回は外されていて、ラッキーでした。
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「狸」。擬人化された法師の姿です。ここまでの作は、全て一度は他の機会に見たことがあるものでしたが、これは初見。その意味では最も見たかった作品でした。類例は清水三年坂美術館さんやその出開帳などで見たことがありましたが、そちらは立ち姿でした。

この「狸」は、光太郎の「蓮根」と並べてありました。父子競演です。ところでSNS上で父子を混同している投稿をよく見かけます。「高村光雲のレンコン」などと……なげかわしいところです。
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「蓮根」、令和元年(2019)に藝大さんに寄贈されたものです。翌年の「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」で展示されて以来かな、と思われます。コロナ禍もありましたし。
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光太郎作品はもう1点。卒業制作の日蓮像「獅子吼」が出ています。こちらはブロンズです。
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木を削って作るカービングと、粘土を積み上げて形にするモデリング、双方で一流の彫刻家というのも日本ではあまり多くないのでは、と、改めて思いました。光雲はカービングの人ですし、光太郎の親友だった荻原守衛にはカービングの作は無いと思われます。

その守衛の「女」。
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ブロンズは一つの型から鋳造したものが複数存在することが多いのですが、「女」も全国にどれだけあるのか当方も存じません。都内だけでも少なくとも5点は把握していますが。

こちらには「伊藤美術鋳造研究所鋳」の刻印。
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光太郎最後の大作「乙女の像」の鋳造を担当した伊藤忠雄の工房です。「おお!」と思いました。

カービングにもどると、光太郎の同級生だった水谷鉄也、光雲高弟の一人・平櫛田中など。

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冒頭の「文殊木寄」や「観音像頭部」のように、教材として使われたであろう手板がずらっと。この手のものが一時、大量に処分されてしまったという話を聞いたことがあるのですが、現存もしているのですね。いちいち作者の銘が入っていません。
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モデリングの方では、中原悌二郎、池田勇八、石井鶴三、朝倉文夫など。
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こちらはほとんど撮影禁止でしたが絵画も。津田青楓、和田英作らにまじって、彫刻科を卒(お)えてから光太郎が入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二など。
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そしていよいよ今回の目玉の黄土水ですが、長くなりましたので、また明日。

【折々のことば・光太郎】

田植の頃に花巻から賢治子供の会の皆さんがはるばる来てくださることもう三度目となりほんとに一年に一度めぐつてくるこよない幸福の日と思ひました 昨日は「雁の童子」だつたので一入感動いたしました 子供等は無邪気にやるのでせうが作の持つ美しさと深さとが自然と素直に表現せられて心にしみ入るやうでした。


昭和24年(1949)6月13日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎67歳

児童劇団「花巻賢治子供の会」の太田村公演に対する礼状の一節。そもそもは光太郎に見てもらうために旧太田村で公演を打っていました。