上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。戦前の台湾から藝大さんの前身・東京美術学校に留学し、光太郎の父・光雲に師事した黄土水(こうどすい)の作品を中心とした展示です。台湾の国宝に指定された大理石の「甘露水」ほか黄作品10点と、師・光雲、そして同時代ということで光太郎らの作品も出ています。

展示開始前日の9月5日(木)、『毎日新聞』さん夕刊で、1面トップと社会面トップで長大な関連記事が出ました。あまりに長いので全文はご紹介しませんが、非常に読み応えのあるいい記事でした。それによると、今回の目玉でフライヤーにも使われている「甘露水」は、黄が昭和5年(1930)に歿したあと台湾に運ばれましたが、その存在が忘れられていき、昭和33年(1958)には元の保管場所から移される中で行方不明となっていたそうです。それが令和3年(2021)に現存が確認され、国宝指定されました。

背景には15年戦争による日台の複雑な関係が。中国本土でもそういうことがありましたが、戦後、日本がらみのものはことごとく排斥の対象となり、そのため「甘露水」も移送途中で放棄に近い状態となるなどぞんざいな扱いを受け、このままでは処分されてしまうと危惧した芸術に理解のあった医師が秘匿していたというのです。また、汚損を修復した日本人技師の苦労話なども紹介されていました。

8月30日(金)のやはり『毎日新聞』さんには、そのあたりの細かな点は出ませんでしたが、ダイジェストというか、9月5日(木)に出る記事の予告編のような記事が。そちらは短いので引用させていただきます。

所在不明60年後、台湾彫刻の幻の傑作「発見」 東京芸大で展示へ

020 大正時代に東京美術学校(現・東京芸術大)に入学し、高村光雲に師事しつつ、自ら西洋彫刻も学んだ台湾人の天才彫刻家、黄土水(こうどすい)(1895〜1930年)。その「幻の傑作」とされた彫像「甘露水」(1919年)が新型コロナウイルス禍の2021年5月、台湾中部のプラスチック工場に置かれた木箱の中から姿を現した。
 戦後に行方不明になってから、実に60年以上の歳月が流れていた。その「発見」は台湾の美術関係者に衝撃を与えた。
 甘露水は1921年に日本の帝展に入選した作品。大理石の彫像で、裸身の女性が大きな貝がらを背に立つ姿から、「台湾のビーナス」とも称される。ただ、西洋のビーナスの姿とは異なる。西洋の方は恥ずかしそうに身をよじっているのに対し、黄の女性像は顔を上げ、堂々とした姿だ。
 黄の死後、日本から台湾に運ばれた甘露水は、台北市の台湾教育会館(現・二二八国家記念館)が所蔵していたが、戦後、この建物は台湾省臨時省議会に替わった。議会は58年に台中への移転が決まり、4月に建物内の文物が台中に運ばれた。ところが、その引っ越しの過程で甘露水は一時、台中駅に放置され、その後こつぜんと姿を消した。
 台湾美術史に重要な位置を占める甘露水を多くの美術関係者が捜し求めた。「発見」に尽力した台北教育大北師美術館創設者で総合プロデューサーの林曼麗(りんまんれい)氏は、曲折を経た約60年の間、甘露水が無事だったことは奇跡に近いと考えている。
 なぜ木箱の中にあったのか。入選から100年という節目の年に姿を現したのは単なる偶然なのか。その驚きの秘話には、台湾の激動の歴史も大きく絡んでいた。
 彫像は黄の母校、東京芸術大の大学美術館で9月6日から展示される。
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当方、本日これから拝観に行って参ります。当初あげられていなかった「出品目録」が公式サイトにアップされまして、光太郎作品は予想通り木彫の「蓮根」(昭和5年=1930頃)とブロンズの「獅子吼」(明治35年=1902)ですが、光雲の木彫が6点も出ています。これは貴重な機会です。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

例年の通りいろんなものを作つてゐますが夜の間に狐や兎が畑を掘り起こして肥料に入れたヌカや魚の骨などをたべてしまひ、苗を倒すので困つてゐます。

昭和29年(1954)6月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎67歳

令姪への微笑ましい書簡の中から。もっとも光太郎にとっては死活問題に近いのかも知れませんが(笑)。