光太郎第二の故郷・岩手花巻の花巻南高さん。光太郎と交流のあった宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間教壇に立っていました。

そちらの文芸部さん発行の部誌『門』の第18号をいただきました。
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まず美しい表紙に驚きましたが、部員の生徒さんが和紙を染めた夾纈(きょうけち)染めだそうで。これは正倉院御物にも使われている技法です。美術部さんとコラボして染めにチャレンジされたとのことですが、よき伝統を受け継ぎ、新しいものをクリエイトしていくという姿勢には感心させられました。

昨年送っていただいた第17号でもかなりの分量で光太郎に触れていただきましたが、今号はさらにパワーアップし、2箇所に分けて「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。ありがたし。
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1箇所目は座談「わたしの高村光太郎を語り合う」と題し、当地で光太郎顕彰活動に取り組まれているやつかの森LLCさんのお三方、それから戦後間もない昭和20年代から児童劇団「花巻宮沢賢治子供の会」で活動されていた熊谷光さんへの聞き書きです。

特に「食」に軸足を置いた活動をなさっているやつかの森LLCさん、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」や、市内東和地区の花巻ワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」などで、光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジなどをなさっています。そうした中で改めて見えてきた光太郎の姿などのお話は興味深く拝読させていただきました。

それから実際に生前の光太郎をご存じの熊谷さんのお話は、実に貴重な証言と存じます。「花巻宮沢賢治子供の会」は賢治の童話を劇化、花巻の中心街と、光太郎が蟄居していた旧太田村の山口分教場(のち山口小学校)で公演を行っていて、光太郎はそれを実に楽しみにしていました。熊谷さんの回想から。

私たちが行った時、先生はとても喜ばれて、帰りは山口小学校の道路の下の大きな道路まで出ていらして、私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。それが、すごく記憶に残っております。

子供たちが見えなくなるまで手を振り続けた光太郎を思い浮かべると、うるっときてしまいました。子供のいなかった当時60代後半の光太郎、「花巻宮沢賢治子供の会」の少年少女たちを本当の孫のように感じていたのかもしれません。
賢治子供の会
上の画像では、熊谷さん、最前列一番左だそうです。今年亡くなった、賢治実弟清六令嬢の宮沢潤子さんもメンバーでした。

そもそもなぜ「花巻宮沢賢治子供の会」ができたのかについても証言が。それによると賢治の教え子だった故・照井謹二郎氏が、戦後になっても戦争ごっこをして遊んでいる子供たちを見て、これではいかん、と思ったのがきっかけの一つだそうです。なるほど、と激しく納得しました。

ところでまだ詳細情報が出ていませんが、10月27日(日)、熊谷さん他「花巻宮沢賢治子供の会」に在籍されていた方、清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でまた花巻にてトークショーを行います。詳しく決まりましたらまたご紹介いたします。

特集のうちのパートⅡは、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」のレポートがメイン。この際は文芸部の生徒さんたちも登壇し、発表や朗読をなさいました。それから家庭クラブの生徒さんと共同で「智恵子のエプロン」の再現。

昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と吉田幾世」で、当方が大正期の『婦人之友』に載った智恵子デザイン・制作のエプロンについてご紹介したところ、それを復刻、披露して下さいました。
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実際に制作に当たった家庭クラブの生徒さんの文章も掲載されています。柿渋の酒袋(おそらく智恵子が実家の長沼酒造から持ってきたか取り寄せたか)が分厚くてミシン縫製に手こずったというお話や、酒袋の規格でほとんどそのまま裁断しなくて使えたというお話など、やってみないとわからないことも。素晴らしいと思いました。

その他、詳しくご紹介する余裕がありませんが、生徒さんたちの詩歌や小説、戯曲などにも感心させられましたし、活動を支える顧問の先生の御尽力なども垣間見えました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

やさしいお手紙は山の中に一人で住む六十六歳三ヶ月の老人の心を静かに慰めてくれました。殊に新しい村の娘さんからなので尚よろこびました。


昭和24年(1949)6月3日 山本武子宛書簡より 光太郎67歳

新しい村」は正しくは「新しき村」で、『白樺』時代からの光太郎の盟友・武者小路実篤が開いた生活共同体。農耕や芸術制作を基本に据え、その意味では花巻郊外旧太田村の光太郎のライフスタイルとリンクする部分も。

現在も埼玉県毛呂山町で存続していますが、現状はかなり厳しいようです。