今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区のアトリエの保存のための組織です。

このたび、会としてのホームページが立ち上がりました。
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会の世話役であらせられる日本詩人クラブ理事の曽我貢誠氏が手配して下さり、そのあたりにお詳しいという同クラブご所属の詩人・遠藤ヒツジ氏に作成していただきました。多謝。

中野のアトリエ、もともとは恐らく光太郎とも面識のあった水彩画家・中西利雄が、建築家の山口文象に設計を依頼して自分用に建てたものでした。しかし、その完成とほぼ時を同じくして中西は急逝。昭和23年(1948)のことです。
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せっかく建てたアトリエを活用しないのはもったいないと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することになり、彫刻家のイサム・ノグチが最初の借り手となりました。その後、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を青森県から依頼された光太郎が、花巻郊外旧太田村の山小屋では制作が不可能なため、このアトリエを借りることとなりました。

そこで、「乙女の像」石膏原型はここで作られたわけです。ホームページのトップ画像は中西アトリエで制作中の光太郎。また、ホームページ内「ギャラリー」の項には、助手の小坂圭二と写った写真など他の画像も掲載されています。

光太郎、像の除幕後、一時的に旧太田村に2週間程帰村したり、宿痾の肺結核のため昭和30年(1955)には赤坂山王病院に2ヶ月程入院したりしましたが、それ以外はこのアトリエで起居しました。当初の目論見では、寒い冬場はこのアトリエで過ごし、春になったら岩手へと、二重生活を考えていたようなのですが、健康状態がそれを許しませんでした。もはや帰村は叶わないと悟った入院時には、住民票もこのアトリエに移してしまいました。

そして亡くなったのが昭和31年(1956)4月2日。最晩年の約3年半、このアトリエで過ごしたことになります。その間、中西夫人や子息の利一郎氏らが何くれとなく光太郎の世話をして下さり、子や孫の居なかった光太郎にとって、中西家の人々は家族同然だったようです。

光太郎没後もアトリエはしばらく借り続けられ(おそらく実弟の豊周が費用を負担したのでしょう)、当会の祖・草野心平や、当会顧問だった北川太一先生らによる最初の『高村光太郎全集』編集室として使われました。そして昭和32年(1957)4月2日、第一回連翹忌の会場ともなりました。

昨年、利一郎氏が亡くなり、このアトリエが存続の危機です。お父さまが光太郎と交流があり、ご自身も利一郎氏と親しかった渡辺えりさんに代表を務めていただき、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を結成しました。003

今後、保存に向けてのさまざまな活動を行っていきますが、皆様方にも御支援を賜りたく存じます。ホームページ内には署名の項があり、既に紙媒体で署名していただいた方はブッキングしてしまいますので結構ですが、SNS等で拡散していただきたく存じます。不鮮明ですが、QRコードも載せておきます。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

音楽だけは山ではきけず、時々ひどくききたくなります。


昭和24年(1949)3月23日 西岡文子宛書簡より 光太郎67歳

この年、電線は村人に引いてもらったので、やがてラジオを入手、音楽も聴けるようになりますが、まだ先の話です。