8月9日(金)に光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第33回女川光太郎祭につき、報道が為されました。
まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。
ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。
【折々のことば・光太郎】
「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。
三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。
その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。
まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。
高村光太郎の生涯に思い 宮城・女川で詩の朗読や講演イベント、県内外のファン集う
戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)があった。県内外のファンら約30人が、詩の朗読や演奏を通して光太郎の生涯に思いを巡らせた。
同町まちなか交流館で9日にあったイベントでは、町内外の8人が朗読。光太郎が女川の風景を見て「新興の気があふれていた」とつづった紀行文や「よしきり鮫(さめ)」といった詩を情感込めて読み上げた。
高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は講演で、福島県二本松市出身の妻智恵子の生涯を解説した。光太郎が晩年、東京都内のアトリエで制作した彫像「乙女の像」にも触れ「彫像の顔は最愛の智恵子だった。そのアトリエの所有者が亡くなり、今存続が危ぶまれている。後世に残すため、思いを同じくする多くの声が必要だ」と話した。
光太郎は1931年に三陸沿岸を巡った。光太郎祭は92年から開かれている。光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎が女川を題材に刻んだ足跡を後世に残そうと立ち上がった町内の人々の苦労や思いを受け継ぎ、語り継ぎたい」と話した。
続いて、同紙の別刷りで牡鹿方面に折り込まれる『石巻かほく』さん。
ところで、女川光太郎祭の講演でアトリエ保存の話をいたしましたところ、その後の女川町長・須田善明氏の祝辞でそこに食いついたお話。同町としては、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑の再建に力をお貸し下さいまして、そのあたりなど。碑の再建方法には女川光太郎の会の方々の意向が全て反映されたわけではありませんでした。それでも町の所有物でないものに対し、税金を投入して支援を行って下さった苦労話には、「なるほど」と思わされました。高村光太郎しのぶ 女川にファン集い、朗読や講演会
戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」が9日、町まちなか交流館で開かれた。県内外のファンら約30人が集まり、紀行文、詩碑、詩の朗読を通して光太郎の思いに触れた。
「女川・光太郎の会」が主催した。町民や東京の中学生ら8人が詩を朗読。女川での体験を基に書かれたと言われる「よしきり鮫(さめ)」や「霧の中の決意」といった詩をギターの演奏に合わせて読み上げた。
講演もあり、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の妻智恵子の生涯を解説。結婚生活や病気療養中につくった紙絵などを紹介した。
小山代表は光太郎が晩年、制作に当たったアトリエが東京にあることに触れ「所有者が亡くなり、存続が危ぶまれている。後世に残すために多くの声が必要になっている」と話した。
光太郎の会の須田勘太郎会長は「祭りを続け、光太郎の足跡を多くの人に語り継いでいく」と話した。
光太郎は1931年に三陸地方を旅した。女川を題材にした紀行文や詩を残し、91年に文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。近年は新型コロナウイルスの影響で中止もあったが、昨年再開した。
光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存運動につき、講演で触れさせていただいたところ、記事の中にも取り上げて下さいました。ありがたし。NHK仙台放送局さんでも6月にご紹介下さいましたが、東北の方々にもそういう話があるんだというのをもっと知っていただきたいと常々思っておりますので。ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。
【折々のことば・光太郎】
「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。
昭和23年(1948)12月27日 三上秀吉宛書簡より 光太郎66歳
三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。
その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。